"1+1=2"である限り、1は1でしかないとそう思っていた。






 店の扉を潜り抜けると、眩しい陽光と共にむわりとした暑さが襲いかかってくる。ああ、今日もなんて暑さなのだろう。どこかでアイスでも買って食べようかな。
 どうやら私の満腹中枢は暑さでいかれてしまったらしい。ついさっき昼食を終えたばかりだというのに、店から三歩の時点でもうすでにアイスが恋しいなんて。でもいくらなんでも、すぐそこの角のコンビニで、なんてのは流石に駄目だろう。三時のおやつをアイスにしよう。そうしよう。そんな事を考えながら手持ちのスマートフォンを耳に宛がう。
 トゥルルル……―― ワンコール鳴り止むか否かのちょうど境目で、それは止まった。


「あれ、もしもし? 英士?」
? どうしたの?』


 予想外の応対の速さに一瞬かけ間違えたのではないかと思ってしまった。英士がこんなに早く電話に出るなんて珍しい。腕時計を見ると午後一時ちょうど。「もしかして休憩中だった?」と尋ねると『そう』と短い返事が返ってくる。かくいう私もついさっき昼食を終えたばかりだ、英士もちょうど昼休憩の時間なのだろう。
 電話の向こうで、ガタン、と鈍い音と一緒に、微かに"英士"と彼を呼ぶ声がする。


「あ、いいよ。移動しなくて。ごめん、誰かと一緒だったよね」
『いいよ別に、結人だから』


 結人くんだからいい、っていうのもどうなんだろう。
 バタン、と扉を閉める音がした後、『どうしたの?』と尋ねる英士の後ろで微かに蝉の声がした。店の外にでも出たのだろうか。今日は七月にしては日射しが強くて暑い。わざわざ外に出るなんて、本当に良かったのに。ただでさえ英士は暑いのが苦手だ。逆に気を使わせてしまったと申し訳なく思いながら、せめて早く店の中へと戻してあげようとさっさと本題へ入る事にした。


「メール返すの面倒でさ。電話しちゃった」
『相変わらずずぼらだね。そんなに長くないでしょ』
「いやー、ほら、英士の声が聞きたくて」
『……よく言うよ』
「まあまあ。で、英士、明日来れなくなったんだって?」
『うん。……ごめん』
「ああ、別に責めようと思って電話してる訳じゃないから。気にしてないから、英士も気にしないで、って言いたかったの」
『そっか、でも、……やっぱり、ごめん、折角の誕生日だったのに』
「そんな祝われるような歳でもないしいいんだってば。英士は気にしぃだなー」


 英士と付き合い始めて明日で三年の月日が経つ。
 一人暮らしを始めてからはもう五年も経った。

 最初の誕生日こそ、私も張り切って料理とケーキを作り、英士は英士で普段よりちょっと高価なワインとプレゼントを手に、私の部屋で仲良くその日を祝った。
 けれど今は違う。お互いの部屋を行ったり来たりしている間に、お互いの信頼は深まったけれど、そんな初々しさは自然と薄れていってしまった。


「あ、そういえばさ、」
『ん?』
「英士用の本棚あるじゃない? あれ、窓際に移してもいい?」
『いいけど、……また模様替えするの? この前したばっかりだよね?』
「うーん……何かしっくりこなくてさ」
『相変わらずだね。まあ、なるべく本が日焼けしないようにしておいてくれればいいよ』


 先日一目惚れしたラグマットを敷き、お気に入りの家具を並べ、写真で白い壁を飾っていく。一度からっぽにした本棚を今度は配置を変えて詰め替える。牙城を一旦崩し、再構築する。そんな作業が私はとても好きだった。
 五年住み続けたアパートはそうして幾度も姿かたちを変え、より住みやすく、より居心地良く――最近では居心地が良すぎて、英士がいなくとも寂しいと思わせてくれない。


『あと動かせなさそうな重い家具は残しておいていいから、……って言ってもは一人でやっちゃいそうだけど』


 笑いながら「そうだね」と頷く。彼の言う通り、私はきっと一人で出来てしまうだろう。
 最初は部屋の電球を替えることすら侭ならなかった。電気関係に滅法弱い私は、電球のワット数も知らず、適当に棚から手に取った電球を付けていて、英士に初めて替えて貰った時にひどく驚かれたものだ。
 けれど今は違う。折角買ってきた電球が合わなくて暗いまま放置することもなく。一度壁から離したテレビの配線を繋ぎ間違えることもない。食器が入ったまま棚を移動させてうっかり割ってしまうこともしない。ベッドだってゆっくりなら一人でも運べる。
 今の私は一人で出来る。そうなのだ、困った事に一人で出来てしまうのだ。


『……? どうかした?』
「えっ、あ、ごめん……ちょっとぼーっとしてた」
『外でぼーっとしてると熱中症になるよ』


 ああ、どうしよう。気付いてしまった。どうしよう。どうしたらいいの。どうすればいいの。


「そ う、だね。気を付けないとね」


 気付いてしまったらあとは転がり落ちるだけなのに。転がって、落ちて、堕ちて、おちて、 





 塊みたいにどんどん固くなっていく。携帯を握る手が、身体が、声が、固くなっていく。


『本当にどうかした?』


 明らかに変なのは私のほうで、それなのに電波越しの彼はとても優しい。返事を促すでもない単なる小さな静寂が私の身体をじんわりと溶かしていく。でも。


「わたし、」


 喉の奥から声が零れ落ちた。私の意思ではないはずなのに、私でしかない声が沈黙を破り、その場の空気を震わせる。だめ、言っちゃだめ、その先は、  そのさきは   、


「英士、わたしね……一人でも大丈夫かもしれない」


 ―― ああ、とうとう言ってしまった。


「ひとりでも、いいのかも」


 その直後、私たちの会話は突如機械音によって遮られる。
 自分で発した言葉の重大さに慄いた指先が誤って通話ボタンを押してしまったのだ。
 慌てて掛け直そうとして、止めた。いや、これで良かったのかもしれないと。掛け直して何を言うのか。続くのはきっと「      」を告げるための前振りにしかならなさそうだ。
 スマートフォンを鞄の外ポケットに力任せにぐいっと押し込んで歩きだす。――暑い。帰ろう。安らぎのあの場所へ帰ろう。
 強い日差しの所為だろうか、アスファルトの上には爪先と一緒に自分の影がより色濃く落ちていた。

 一人で平気なのかもしれない。
 それは自分の奥底にあった、けれど見ない振りをしてきた、紛れもない事実だった。

 歩いて。歩いて。歩いて。家へとひたすらに歩く。アパートの階段を駆け上がり、鍵を開け、それを玄関に放り出したなら脱いだ靴を揃えることも忘れてベッドへと一直線。ぼふり。一度二度弾んだ後、柔らかな布の感触が投げ出した身体を包み込む。
 眠ってしまいたい。ささやかな願いを叶えるように私の意識はゆっくりと深みへと落ちていった。











 ……ちょっと、。俺にばっかり持たせないでテーブルのそっち側持って。
 えー、せっかく本棚の素敵配置を思いついたとこだったのに。
 はいはい。次はそっち手伝うから。ほら。
 はあーい。……そんじゃ行くよ。せーの。


 これは夢だ。英士と付き合って数カ月のとき、初めて彼を模様替えに巻き込んだときの。
 引っ越してからそのままの配置だった家具を、ずっと変えたい変えたいと思っていたけれど、なんだかんだで機を逃してしまっていた。けれどある日の「手伝うよ」という彼の言葉に甘えて、引っ越して以来初となる模様替えを敢行したのだ。そんなに本格的にやるのかと英士は驚いたが、結局は諦めて二人で一緒にああでもない、こうでもない、と家具の収まりのいい配置を考えた。


 こっちの棚さ、英士用の本棚にしようよ。
 え、いいの?
 いいよー。ていうか、すでに半分くらい英士用の本で埋まってるしね。
 ごめん。
 謝ることないのに。英士の選ぶ本って私と違うから面白いよ?


 本当は提案する前から自分の部屋のなかに彼のための何かを設けようと思っていた。
 まだ未完成の城は足りないものが多すぎて、隙間風なんて入らないはずなのに、どこかひやりとして寂しかった。だから孤独なワンルームにいつでも彼を迎え入れられるように、何かが欲しかったのだ。


 ……重い。英士せんせい、この本棚重いです。先生。
 本入れっぱなしで運ぶからでしょ。一回出しなよ。
 せっかく綺麗に並べたとこなんですけど。
 お疲れさま。そしてもう一回頑張って。
 うわ、何てひどい男だ。


 けれど、月日を重ねるにつれ、彼が彼の舞台で輝くにつれ、英士の足は私の部屋から遠のいていった。
 別に他の女がいるわけじゃない。たぶん英士はそうなったら潔く私を切り捨てる人だから、きっとそういう性格の人だから。そうじゃなくて、単に国内外問わずに行われる試合が彼を引き寄せて止まないだけの話だ。それはとても喜ばしいことだ。そう、喜ばしいことなのだ。


 ……嫌になった?
 え?
 ひどい男だって、嫌いになった?


 英士の視線に耐えきれず、私は俯いたまま子供のように首を横に振るしかできない。英士はそんな私の手首をゆるく掴んで、引き寄せて、頭のかたちに寄り添うに自分のそれを傾ける。


 そっか。


 嬉しそうに綻ばせた目許だとか。髪を滑っていく指先の感触だとか。音も無く降って来た影のいろとか。触れた瞬間に掴まれた手首にぎゅっと力が入ったこととか。
 そういうものが、遠くへ、ずっととおくへ、いってしまっただけで。

 そして、それが全てだとおもっていた幼く愚かな私も一緒にどこかへ行ってしまったのだ。とおくへ。そう、もう取り戻せないくらい、ずっととおくへ。
 いつからだろうか。彼がいないとさびしいと言っていた私は、いつのまにか、彼がいなくても平気になってしまっていた。












 ガチャリ。鍵が開く音がした。隣の部屋のひとが帰ってきたのだろうか。というか、私はいったいどれだけ眠っていたのだろう。
 身体を起こそうとしたが、変な時間に眠ってしまったせいか、身体がひどく重い。結局指先一本動かした程度で起きることを諦め、再び瞼を落とした。


 ―― 


 ああ、英士の呼ぶ声がする。また英士の夢を見るのだろうか。今度は一体、いつの、ふたりのゆめを。
 意識がどろりと溶け出す直前、ドサッ、と決して夢とは思えない衝撃が襲いかかった。反動で身体が一瞬浮き上がる。なにかが落ちてきた。いや、ちがう、人が、ベッドに倒れこんで、――


「……っ、」


 起き上がろうとした身体を上からぎゅっと押さえ込まれる。
 二の腕を抱え込まれるように重力を掛けられたら、再びベッドへと沈み込むしかない。再び、ぼふり、と布団の上を身体が弾む。
 壁を向くように寝ていたから、背中側から抱きつかれるような態勢だけれども、見えなくても分かる。この手に、この腕に、ひどく見覚えがあった。



「……英士」


 ああ、やっぱり、と思うしかなかった。この感覚を与えてくれるのは彼以外の何者でもない。
 でもすぐに別の疑問が浮かびあがった。どうして来たのだろうか。電話で中途半端に話を切ったからか。それともあの続きをしにきたのか。
 英士の拘束は起き上がるのは難しいけれど身体の向きを反転させられるくらいには緩かった。彼の腕のなかをもぞもぞと動くと、ふわり、と微かにアルコールの匂いがした。カーテンを開けっぱなしのはずの窓が暗くて、ああそうか、もう夜なのか、とそこでようやく時間の感覚を取り戻す。
 やっとのことで身体を反転させると、思ったよりも近くに瞼を落とした英士の顔があった。


「どうしたの?」
「いや、ちょっと……結人と一馬といたら、偶然藤代に会って、それで、」
「飲まされちゃった?」
「まあ、そんなとこ」


 瞼を落としたまま、英士は少しだけ苦く笑う。
 藤代さんには直接会ったことはないけれど、若菜さんと二人揃うと賑やかすぎて困る、という話は聞いたことがある。普段英士はお酒なんて飲まないから、こんな風になるのは珍しい。


「明日の予定、ちょっと時間が遅めになったから、それなら今日は早目に切り上げてこっちにって思ったんだけど……結人と藤代が帰してくれなくて。帰るならこれ飲んでから行け、って、度数がキツめのを何杯か、ね」
「うわ、えげつな」
「……まあ、ちょうど二人とも独り身だったから余計にね」
「大変だったね。でも、そこまでしなくても、よかったのに」


 明日の集合が遅くなったといっても、英士の仕事は身体が資本だ。休息が第一。英士は日本を代表するサッカー選手だ。試合の他にもインタビューだって受けなくてはいけないし、雑誌の撮影やコラムもやっているの知ってるよ。彼らにとって時間は有限だ。休める時には休んだ方がいいに決まっている。
 英士から香るアルコールに私まで頭がくらくらしてしまう。私のためにこんな風になるなら、しなくてもよかったのだ。


「……わたし、ひとりでも、平気だよ?」


 電話越しに紡いだ台詞を、今度は直接口にした。
 みっともなく震えてしまった二度目の告白は英士の瞼をゆっくりと持ち上げさせた。スローモーションのように露わになる英士の両眸は、頼りなく虚ろに揺れる私とは違って、凛と芯が通っていた。


「一人でもいい、ってことは、二人でもいいってことでしょ?」


 彼は事も無げにそう言った。疑問符が付いていたけれど、胸の内では確信しているようなそんな声で。
 "一人がいい"と"一人でもいい"は全然違うよ。とも、そう付け加えて。そうして笑ったのだ。


「そういう風に一人で思いつめるの、の悪い癖だよ」


 身体を拘束するように回された腕が、ぽん、ぽん、と子供をあやすように私の背中を撫ぜる。その反動でほんの数ミリ距離が縮まっただけなのに、英士の熱がふわりと近づいたような気になる。

 自分から額を彼の胸元に寄せて、触れて、熱を感じて。ひどく後悔した。
 私はどうして彼を手放そうとしたのだろう。と。
 私が一人で何でもできるようになったからといって何なのだ。一人で平気になったなら恋人と別れるというなら、彼の方がとうの昔に私を捨てている。何て思いあがりだ。恥ずかしい。恥ずかしい。
 わたしは"さびしい"と感じなくなってしまったら、好きではないのかと、そう思っていた。でも多分ちがうのだ。上手く言えないけど、たぶん、きっと、違っていて。
 彼がいないと生きていけない、と、そんな恋があってもいいとおもう。かつての私はそうだった。それが恋だと思っていた。
 でも、彼がいなくても生きていけるけど、それでも一緒にいたいとそう思える形もあるんだと。今、初めて、気が付いた。


「俺はいつでも俺がしたいことをしてるだけなんだから」


 私の耳は涙腺と一緒に壊れてしまったんじゃないだろうか。
 ぽろぽろと重力のままに流れ落ちていく音と一緒に、「だからが嫌じゃないなら一緒にいようよ」なんて、続いていないはずの台詞まで聞こえてきてしまったのだから。
 恥ずかしくて、みっともなくて、彼の胸元に顔を埋めて、何度も何度も頷いた。子供みたいに何度も頷いた。


「……ごめ、……誕生日は、あした、……ちゃんと祝う、から、……」


 余程眠かったのだろう。私が目を真っ赤にしている合間に、彼の意識は闇のなかにどろりと溶けていってしまった。少しもしない内に規則正しい寝息が空間を支配する。
 一人でも生きていけるけど、きみと、一緒にいたいよ。
 英士の首筋に唇を落とす。髪を滑る指先の感覚も、触れた瞬間に力が込められる感覚も、眠る彼からは何も感じられない。それでも胸の奥がぎゅっとなった。







1 ≒ 2


( この感覚は、一人でいたら、決して得られない )