人はいつでも星を探している。
 星で季節の移り変わりを感じたり、方向を導いたり、時には未来を占ったり、その目的は違えどどんな時代においても星は誰かに眺められ続けてきた。
 そして今、午前零時ちょうど、私もまた空を見上げている。歴史に残るような理由はないけれど、町にある小高い公園までピクニックのような重たい荷物を背負い、だだっ広い芝生でそれらを思い切り贅沢に広げて寝転がりながら見るのが好きなのだ。


「あ、」


 ―― 流れた。
 一瞬のうちに夜空を横切ったそれは当たり前だけれどすぐに見えなくなってしまう。それでも瞬きの合間のような現象に胸が熱くなるのはどうしてだろう。
 

「ねえ、不破くん、今流れたよね?」


 私がそう尋ねながら寝返りを打つように身体を転がすと、不破くんは私が先程までしていたのと同じ仰向けの体勢のまま「そうだな」と答えた。
 相変わらずとても素っ気ない返事だけれど、だからといって彼が何とも思っていない訳ではない。不破くんはあまり表情豊かではない上にいかにも"論理的"といった物言いをする。だからとても誤解されやすいけれど、彼は彼なりに表面には出ないひっそりとした内側で感動も悲観もしているのだ。その証拠に不破くんの瞳は真っ直ぐに夜空に注がれていて、瞬きすら惜しみながら目の前の夜空を密かに噛み締めているように思えた。
 私がまた仰向けの体勢に戻ると、またひとつ、星が流れた。


「やっぱ今日観ることにして正解だね」
「ペルセウス座流星群の極大日だからな」
「朝に雨降ってたからどうなるかと思ったけど晴れたし」
「欲をいえばもう少し雲が無ければ良かったんだが」
「ねー」


 不破くんの言う通り、晴れてはいるがまだ少しだけ雲がかかっている。細長い灰色の雲が時々月を遮るように真横へ流れていた。
 この公園は町の中心から離れているせいか、人の往来も少なく、街灯の設置もほとんど無いに等しい。だからこそ天体観測には持って来いの環境なのだが、逆をいえば月明かりが無いと真っ暗になってしまうということだ。
 暗い。なにも見えない。
 真っ暗闇のなかで不破くんの気配だけが微かに身じろぐ。きっと腕を伸ばせば届く距離。それがなんだか妙にくすぐったい。


「でも極大日に二人で見るのって初めてじゃない?」
「天文部の時に見ただろ」
「大学の時はふたりきりじゃなかった。"二人で"は今日が初めてだよ」
「そういう解釈か」


 それなら納得だ、と言わんばかりに不破くんは頷く。
 彼が身体を起こすのに倣って、私も身体を起こす。


の言葉は昔から時々難しいな」
「そうかな?」
「俺にとってはな」


 そうかな、と彼の台詞を疑問に感じながら、身体は自動運転装置でも備え付けているかのように鞄から水筒を取り出し、とくとくと温かい麦茶を注いで彼へ渡していた。そして不破くんもまたそれを当然のように受け取り、コップへ口を付ける。


「今日で何回目の観測だっけ?」
「分からん」
「私も分かんないや」


 何回目か分からなくなるくらい、何も言わなくてもお茶の受け渡しをしてしまうくらい、私たちは長い間こうしている。
 大学の天文サークルに同期で入って天体観測をするようになって、サークルの観測日になかなか人が集まらない中でも私と不破くんは毎回足を運んでいて、そうしたら何となく二人で観測するようになって、それが大学を卒業した今も続いている。お互いに仕事があるから数カ月に一度の頻度だけれど、あの頃と変わらずに二人とも約束の日は必ず遅れることなく集まっていた。
 そう考えるとすごく妙な付き合いなのかもしれない。湯気を立てるコップに息を吹きかけながら彼を横目で見ると「どうした?」と彼は首を横に傾げた。「なんでもない」と首を振ると、不破くんは「そうか」とまた麦茶を啜る。


の麦茶はいつも美味いな」
「そう? 普通のパックで売ってる麦茶だよ?」
「そもそも温かい麦茶というのがあまり飲まん」
「それ友達にも言われる」


 うちでは普通なんだけどなあ、と溜息混じりにコップに口を付ける。
 昔から我が家では夜に飲むといえば温かい麦茶だった。眠れない時、テスト勉強に煮詰まった時、大学の受験前の夜もこの麦茶だった。母がそっとテーブルに置いてくれる麦茶は、一口飲むとなんとなくほっとする味で、私はそれがとても好きだった。
 だから他の家庭でも同じだと思ったのだ。でも違った。友達をアパートに呼んで麦茶を出した時はとても吃驚されて、そんな友達に私も吃驚してしまったくらいだ。
 それでも地道にホット麦茶を普及し続けて、今では私の周りに限っては出しても驚かなくなった。
 「ん、」と不破くんが徐にコップを私の方へと差し出す。いつの間に中身はからっぽになったんだろう。そんな疑問を感じながらも、何だか子供じみた仕草に嬉しくなって、水筒を手にとくとくと今度はコップの縁ギリギリまで麦茶を注ぐ。


「あんまり飲まないけど、飲んでみると意外といけるでしょ?」
「ああ、美味い」
「ノンカフェインだから帰ってもよく眠れるよ」


 何度一緒星を眺めても、そこから彼と一緒に朝を迎えたことは一度もない。互いが互いの部屋へ帰り、次の朝までゆっくりと眠る。二人とも仕事だから当然といえば当然だ。だから私はいつもよく眠れるようにノンカフェインの麦茶を用意する。
 でも、たとえ明日が仕事でなかったとしても、私たちが一緒に朝を迎えることはないのではないかと思う。私たちの間にはいつも腕ひとつ分の距離があった。



 ******



 不破くんは昔からどこか近寄りがたい印象の人だった。
 彼の表情少ないところも多いに関係したけれど、それとは別に彼が周囲に比べていわゆる"浮いた人"だったからだ。
 それは天文サークルに所属した初日も同じだった。
 行き付けの居酒屋で毎年恒例の新入生の自己紹介をしていた時だった。名前と学部、それにこのサークルを選んだ理由を言うだけのありきたりなものだ。当然私にも順番は回ってくる。緊張しすぎていてなんと言ったか全く覚えていないけれど、歴史と神話に興味があって、特に星に纏わる神話が好きで、とかなんとか言ったのだと思う。特に変なことを言ったつもりは全く無かった。でも。

 ―― 神など非論理的だな。

 私が自己紹介を終えた直後、そう言い放ったのが不破くんだった。彼は場の空気を読むどころか、真っ二つに切り裂いた。当然周りは凍りついたし、私はそれ以上に固まった。
 先輩が気を利かせて場を盛り返してくれて辛うじて一拍の静けさが漂っただけで済んだ。その後は何事も無かったかのように飲み会は進んでいったし、誰もそのことについて触れることは無かった。触らぬ神に祟り無しということなのだろう。
 入部初日にして周囲は不破くんに"近寄りがたい人"のレッテルを貼り、私はその上に"怖い人"というのを重ね貼りした。それくらい彼の言葉は鋭利にわたしを切り裂いた。

 それからはサークルの集まりがあっても何と無く距離を置いていたし、共通の授業があっても会釈程度で、不破くんに近寄ろうともしない日々が続いた。彼は彼で元々そんなに自ら人に関わっていこうとしない人らしい。
 それでも、通りすがりに彼が着た白衣の裾がたなびく度、彼の発した言葉が頭の中でくっきりと蘇るのだ。
 たぶん悔しかったのだと思う。ただ単に好きなものを好きだと言って、しかも詳しい理由も聞かずに「非論理的だ」と言われて、大なり小なりお互いに星が好きな気持ちは変わりないはずなのにその気持ちさえも一方的に踏みにじられたような気になって、悔しかったのだ。そしてずっとそれに反論したかった。私の頭の中であの日の彼が話す度にいつもどう言おうかと考え続けていた。彼が反論出来ないくらい論理的な説明の付くなにかでもって。
 そしてサークルの夏の合宿の夜、私はわたしの想像を現実へと変えることにした。

 大学からバスで数十分、山合いのスキー場で合宿をするのが天体観測をするのが天文サークルの恒例行事だ。冬には雪に覆われるそこも、夏は青々とした野原が斜面に沿って上から下へ真っすぐ伸びている。広々とした敷地のなかでそれぞれが好き好きに観測する中で、不破くんは一人立っていた。


 ―― 不破くん、なにしてるの?


 そう声を掛けると不破くんはとてもゆっくりとした動作で振り向いた。
 今まで近寄ろうともしなかった女がいきなり話しかけてきて不審に思われないかと構えていたのだが、彼は眉一つ動かさずに「ああ、お前か」と言うだけだった。


 ―― 天体望遠鏡が空くのを待っている。
 ―― あそこで先輩が使ってるやつ?
 ―― ああ。今日の機材の中ではあれが一番性能が良い。折角の極大日、一番良いもので見るべきだ。


 一応先輩を優先させるべきだと分かっているのか、それとも先手を打たれただけか。天体望遠鏡から遠くもなく、近くもなく、少し距離を置いた場所で彼はじっと先輩の背中を見つめている。
 ああ、不破くんは星が好きな人なんだな。そんな考えが流れ星のようにすっと過った。


 ―― 不破くんは本当に星が見たくてこのサークルに入ったんだね。
 ―― 入部の理由なら最初の自己紹介の時に言ったはずだが?
 ―― ごめんごめん。実を言うとあんまり聞いてなかったんだよね。不破くんに限らずほとんど全員のだけど。


 自分で言っておいてなんだが、とてもバツの悪い告白に思わず肩を竦める。
 でも本当の話だ。不破くんが私へ向けた一言があまりに衝撃的で、その後のことは自分でも笑ってしまうくらい記憶があやふやだ。
 あの短い一言はどの文字がどんなトーンで放たれたかまでくっきりと覚えているというのに。


 ―― 不破くんは私の自己紹介って覚えてる?
 ―― ああ、覚えている。
 ―― 私も、覚えてるよ。不破くんの自己紹介は忘れちゃったけど、その時に不破くんに言われたのはすごく覚えてる。
 ―― そうか。
 ―― うん。それでね、ずっと考えてたんだ。


 そう、ずっと考えていた。あの日を思い返しながら何度も。
 彼とすれ違う度。サークルで顔を合わせる度。同じ講義を受ける度。今、彼がそうしているように、遠くも近くもない場所から背中をじっと見つめて考えていた。


 ―― 不破くん、神様は虚数なんだよ。


 そう言うと、今まで横目で見るだけだった不破くんの瞳が顔ごとゆっくりと動き、真正面から私の瞳を捉える。他の人よりもほんの僅かにちいさな黒いふたつの瞳。
 一旦囚われてしまえば抜け出すのは難しい。それでも逸らすという選択は無かった。瞬きさえも憚られる中で、不思議と唇だけはとても滑らかに動いた。


 ―― 虚数って本当は存在しない数字だよね? でも虚数があると仮定すると数学的にも綺麗に説明が付く。多分ね、神様だって同じなんだよ。存在しないと思っているけど、そこにあると仮定するとどんな不思議なことも説明が付く。今なら宇宙のことも研究が進んでるから流星群だって当たり前のように見てしまうけど、ずうっと昔の何の知識もない人が見たらきっとすごく不思議なものに見えると思うんだ。それこそ神様の仕業なんじゃないかって思うくらい。


 何度も何度もこの時を繰り返しシミュレートした。それでも息は詰まるし、喉と唇は妙にカラカラに渇いている。
 けれど問題はここからだ。彼が何と反論してくるのか。幾パターンか想定して答えを用意してみたけれど、きっと彼のことだからもっと斜め上のことを言われるに違いない。そう思って構えていたのに。


 ―― そうか、お前はそういう考えなんだな。


 彼の答えは私の想像の更に遥か上空を飛び越えていった。それどころか「ふむ、参考になった」と頷く始末。
 跳ね返されるとは想像していたが、まさかそのまま受け入れられるとは思いも寄らなかった。もしかしたらこのひとは。


 ―― 空いたようだぞ。
 ―― え? なに?
 ―― 天体望遠鏡が空いたと言った。お前も待っていたんじゃないのか?


 不破くんは一歩踏み出し、ゆっくり振り向く。「行かないのか?」と夜に似た色の瞳を向けるこの人は、もしかしたら私が考えているような人ではないのかもしれない。


 ―― 不破くんって私の名前覚えてる?
 ―― だろ。突然何だ?
 ―― さっきからお前ってしか呼ばれないから。知らないのかと思って。
 ―― そうだったか?
 ―― そうだったよ。
 ―― お前と呼ばれるのは嫌いか?
 ―― あんまり好きじゃないかな。
 ―― そうか。ならば次から改める。
 ―― そうしてくれると助かります。


 そう言って、私もまた一歩踏み出す。彼の隣に並ぶとすぐに「行くぞ、」とまた夜色の瞳が前を向いた。
 そうして私の前を行く背中を見詰めながら、私は彼に貼ったレッテルをゆっくりと剥がし、捨てた。



 ******



、そろそろ帰るぞ」


 不破くんは決まって午前一時を過ぎるとそう切り出す。


「そうだね、帰ろうか」


 そして私もそれを難なく受け止める。
 我儘を言わない。彼へ近づきすぎない、踏み込まない。けれど遠ざかり過ぎない。腕ひとつ分の距離を保つために私がずっと心がけていたモットーだ。それに倣ってすぐに片付けを始めた。
 行動と気持ちが伴わないなんてことは、この歳になるとよくあることだ。
 コップに僅かに残っていた麦茶を一気に飲み下す。喉を通り抜ける麦茶はすっかり冷え切っていた。

 荷物を片付け終え、公園から街まで下りていく。駅まで辿り着いた時に時計を見るとちょうど午前二時を指していた。
 街はとうの昔に眠りに付き、普段と違う無人の商店街を歩くのはなかなか悪くない。季節は夏といえどやはりこの時間は夜風が冷たい。薄手のパーカーを持ってきて正解だ。鞄に入れていたチャコールグレーのそれに袖を通し歩いていくと、程なくしてアパートのある住宅街が見えてくる。
 ここまで来ると街灯も駅前に比べると大分身を潜めていた。おかげで公園には到底及ばないけれど、見上げた夜空に流星が真横に走るのが見えた。


「ここでも案外見えるものだね」


 そう言うと不破くんも私につられるように上を見る。


「この辺は繁華街から離れているからな」
「この辺街灯無くて帰る時怖くてやだなーって思ってたけど星が見えるのは良いね」


 今まで全然気が付かなかった。今日も仕事疲れたなんてうだうだ言いながら帰るんじゃなくて、こうやってもっと空を見上げたりすればよかった。なんて勿体ないんだろう。
 自然と二人とも歩く速度がゆっくりと落ちていった。ふとした拍子に止まってしまいそうで、けれど止まりそうで止まらない速度。
 またひとつ、星が流れた。


「いつ見ても流星群って不思議だよね」
「不思議か? 今更だな」
「いや、流石に仕組みは分かってるよ。仮にも天文サークルだったし、不破くんも教えてもらったし」


 彗星が通った後には塵が残される。その塵がある場所へ地球が突っ込むことで塵が地球の引力に引き寄せられ発光する。それが流星群だ。
 不破くんやサークルの先輩はダストストリームが何やらとかもっと小難しい言葉で説明していたけれど、その専門ではない私にとってはこれくらいの簡単な説明しか出来ないが、それでも何となくの構造は理解しているつもりだ。
 そう、理解はしているつもりなのだ。でも。その続きを言ってもいいのかそうでないか判断しかねて言葉の続きを口の中でもごもごと転がす。


「"神様の仕業"かもしれない?」


 不破くんの一言に思わず身体が魚のように跳ねる。
 それは。その台詞は。


「……覚えてた?」
「衝撃だったからな」
「何年前の台詞だと思ってるの、早く忘れてよ」


 項垂れる私を余所に、不破くんは「当分は無理だろう」と言い切る。
 昔から不破くんはこういう人だ。慰めだったり取り繕いだったりというのが一切無い。その場限りの言葉を与えようとしないのだ。だから彼が当分は無理だと言うのならば本当に忘れてくれないのだろう。
 「なるべく早くお願いね」と言ってはみるけれど、「善処はしよう」と返される時点で望み薄だ。
 でも、なるべく早く、と言ったところで、彼が本当に忘れてしまったその時にわたしは一体何処にいるのだろう。彼の隣をこうして歩けているのだろうか。
 毎年変わらずに星は流れるけれど、この腕ひとつ分の距離が同じくあるとは限らない。


「ふたご、こと、みずがめ、やぎ、しし、オリオン、こぐま、しぶんぎ、……そして今日がペルセウス」


 不破くんと何回天体観測したかは忘れてしまったけれど、二人で見た流星群が何なのかは覚えている。指折り数える合間に彼との思い出が走馬灯のように過っていくのはどうしてだろう。


「有名どころは制覇しちゃったね」


 これで彼との時間が終わるわけではないけれど、主だった流星群を見てしまった今、何となく一区切りのような心地がしてならない。
 流れる。星が流れる。夜空を這うように流れ、消えていく。


「ねえ、不破くん」


 彼の名前を呼んで、久しぶりに空から彼へと視線を移す。
 次はどうしようか、なんて、そんな話をしようかと思っていたのに。彼を見た瞬間にそんなものは全部吹き飛んでしまった。


「っえ、ちょ、不破くん」
「どうした?」
「ど、うした、って……それ私の台詞なんだけど、」
?」


 不破くんはとても不思議そうに首を傾げる。
 でも正直首を傾げたいのはこちらの方だ。どうして。どうして彼は。


「どうして、泣いてるの?」


 不破くんの頬には確かに涙が一筋流れていた。


「何故だろうな、俺にも分からん」


 そう答える不破くんの声も表情も普段と何ひとつ変わりない。
 それなのに流れ星のように、またひとつ、流れて落ちて消えていく。
 ハンカチを差し出すことも出来ずにただ立ち尽くすだけの私を、不破くんの声がいつも通りに「」と呼ぶ。その声に胸の奥がぎゅっと締め付けられるように痛くなった。


「最近、お前に言われた言葉をよく思い出す」


 私も、不破くんも、とうの昔に歩みは止まっていた。
 今の私には歩くどころか指一本動かせない。「うん」と頷くだけで精一杯だ。


「大学を出て今も研究を続けているが、最新鋭の機材や研究員をどれだけ費やしても宇宙に関する謎は未だに尽きない。むしろ技術が進めば進むほど現代技術の限界さえ感じるくらいだ。俺は未だに神なんてものは信じてはいないが、それを信じたくなる人智を超えたものがあるというのは分かった」


 夜色の瞳が、一瞬だけ上向いて星を追いかけた後、同じ場所に私を映す。


「技術や知識が高度になるほど説明が付かないこともある。この涙もその一つかもしれん」


 笑うでもなく、ただ淡々と不破くんは言葉にする。
 けれど彼はその場限りの言葉を言う人ではないと私は知っている。彼がそう言うのならばその通りなのだと。そして彼は他人に近寄りがたいと思わせてしまうくらい表情を表に出さない人だ。そんな彼が涙を流している。それはきっととても凄いことだ。凄いことなのだ。


「何故まで泣いているんだ」
「……分かんない」


 「そうか」と不破くんが言って、「そうだよ」と私が答える。
 不破くんの後ろでまたひとつ星が流れるのが見えて、何だかもう充分だなと思えた。
 パーカーの袖を指の先まで覆うように引き上げ、不破くんの頬に触れる。


「ねえ、不破くん」
「何だ?」
「私、今度はオーロラが見たいな」
「……それはどういう意味だ?」
「どういう意味でしょう?」


 まるで謎かけのような応酬。けれどきっと論理派の不破くんは言葉遊びじみた謎は苦手だろう。だからヒントをひとつ。


「オーロラを見に行く時はまたあったかい麦茶作って持っていくね。不破くん、好きでしょ?」


 そう言うと、二人の間の張り詰めたものが一瞬ふっと緩んで和らいだ。


「やはりの言葉は難しいな」


 涙で濡れた瞳がわたしを見ている。頭上で星が流れるのを気にも留めず、まばたきを惜しみながら、少年のようなふたつの瞳が私のなかから答えを探そうとしていた。





『まばたき惜しむ少年』
title by alkalism