窓を開けると、ふわり、緑色の風が舞い込む。くーっと伸びをしながら、空を見上げれば、ちょうど自分の真上でクジラが高い声をあげ、空を泳いでいた。
ああ、今日もいい天気だなあ。その証拠に窓ガラスに植えた蓮の花がもうすぐ咲きそうに喜んでいる。
きっと旅に出るなら、今日しかないんだ。蓮の花も美しいけれど、あの花はもっとたおやかで、ひどく可憐だ。きっと僕を待っている。行かなくちゃ。ううん、行かなきゃならないんだ。
ああ、そう決まったなら、お気に入りの自転車を出しておかなきゃいけないな。そして彼に「旅に出る」と告げに行かなければ。いや、そもそも自転車で旅に出ても大丈夫だろうか。昨日飛ぶのに失敗しちゃったんだよなあ。あ、やばい、なんか思い出したら、あの時にすりむいた膝小僧がちょっぴり痛くなってきた。
自転車で飛ぶのはなかなか難しい。ペダルをこいだ時に生まれる春色の風は、頬をくすぐって気持ちがいいし、すごく好きなんだけど、コンクリートの坂道に似せたジャンプ台は手ごわくてまだ倒せていない。今日こそはぜったいに。窓からふわりと飛び降りたら、真下にあった自転車に跨る。ハンドルをぎゅっと握り、ぐい、とペダルを踏み込む、そうしたら、


 「、早くしないと遅刻するわよ」
 「………、……はあい」


――今、すごくいいトコだったのに。
そう娘が独りごちたのも知らず、母は、はやくはやく、と急かしてくる。はいはい、と適当に背中で流しておくとして、こっそりと唇を尖らせながら、のろのろとした手つきで靴を履く。


 「いってきまーす」


玄関の扉を開けて、外へと踏み出す。まぶしい。太陽の光がまだ眠たいと訴える網膜を容赦なく刺激してくる。
ここは現実世界。わたしの生きる世界。空を見上げてもクジラは飛んでいないし、自転車だって飛ばない。キコキコと頼りない音で学校へ続くこの道を進むだけだ。


 「あー……いーてんきだなあ…。なんかもう、どっか行っちゃいたーい…」


真上には青空。背中にはぽかぽか陽気。なんで私はこんな天気のいい日に真面目に学校へ向けて自転車を漕いでいるんだろうか。こんな日に学校へ行ったって、どうせ授業なんてろくに耳に入らないのは目に見えている。同じシャープペンを使う作業なら、書きかけの小説の続きでも書いた方がよっぽど生産的ってもんだ。
気持ちが憂鬱に近いマイナス方面へ傾きかけていたが、数メートル先に見慣れた背中を見つければ、ちょっとだけ気持ちが浮上する。左ハンドルにぎゅっと力を入れ、すう、とおおきく息を吸って、


 「黒川くん、おはよー!」


後ろ向きの背中を振り向かせるべく、その名前を呼ぶ。右手をおおきく振りかざせば、風が手のひらにぶつかってきて、なんだか心地よい。
くるん、と背中だけ見えていたのが、裏返しになる。手を振れば、彼の右手がほんのちょっとだけ挙がる。


 「はよ」


彼につられて、二度目の「おはよう」を返し、自転車のブレーキをきゅっと握って、さり気なく彼の隣へと降り立った。
地面に足が着くと同時、さっきまであった憂鬱は、すでにどこかへ消えてしまっていた。我ながら単純である。


 「黒川くん、ねむそーだね」
 「……昨日の夜、ちょっと色々あってな。あんま寝てねーんだよ」
 「色々って、何したの?」
 「まー…イロイロだな」
 「そこんとこ詳しく!」


明らかに眠たそうに首やら肩やらを回している彼を余所に、ずい、と詰め寄る。単純に知りたいのだ。知りたくてしょうがないのだ。こんな風なのはしょうがないって言ってほしい。仕方ないって言ってほしい。だって、好きだから。

彼との出会いは小説のネタにもならないくらい陳腐に、単に同じクラス名簿に名前が載ったから、という理由だった。最初は、目つきが怖い人だな、ってそれくらいだった。あ、あと、肌の色黒いなー、とか、そんな感じの感想を抱いただけで。それは同じクラスで過ごしている間も同じだった。すっごい好みのビジュアルというわけでもなく。格別に自分の好みの性格をしていたというわけでもなく。今思い返してみても、正直な話、どうして好きになったのか、よく分からない。

でも、好きだ、と思った瞬間だけは今でもはっきり覚えている。わたしの世界が変わった瞬間だった。

一年の夏、黒川くんと同じ班になってから、数週間後の掃除の時間だった。
その日の掃除は図書室。週代わりで掃除場所がローテーションするのだが、図書室はその中でも一番ラッキーな場所だった。司書さんはカウンターの近くにゆったりと腰掛けて、いつも「床をね、ちょっと掃いてくれたら後はいいわよ」と、見た目と同じくらい、ふっくらとした話し方でそう言ってくれる。しかも非常勤の先生ということも相まって、生徒のいない授業中にまめに掃除をしているせいか、本当にちょっと掃いたらそれで綺麗になってしまうのだ。だから、大抵、軽く掃除してしまえば、残りの時間は友達と話すか、本を読むか、はたまた机に突っ伏して寝るかして過ごす。
そういう私も例外ではなくて、さっさと箒で自分の担当スペースを掃いて、今まで貸し出し中だったあの本を今の内に借りておこうと、そう思っていたのに。――予想外の障害。後はちりとりでゴミを取るだけだっていうのに。よりによって、黒川くんが掃除用具入れに凭れているとは。正確には、掃除用具入れに凭れながら、本棚をじっと見つめていのだが。その視線が棚に沿って真っ直ぐ背表紙を追いかけているものだから、とても声を掛けづらい。だからといって、ちりとり無しで掃除を終えるのも難しいし。かといって、このやろう、はやくどけよ!なんて言う勇気も無いし。どうしよう。なんて思っていたら、黒川くんが不意にこちらを向いた。考えていたことが考えていたこと故に、テレパシーが通じたのかと思って、どきっとしてしまった。けれど、そんなことはないようで、彼は無言で逡巡した後、今の状況を把握したらしい。後ろに傾いていた彼の身体が、ふわり、と持ち上がる。


 「悪ィ、邪魔だよな」
 「いや、うん、こっちこそ邪魔してごめん」


目の前の彼は、隣の席ではなかったけれど、斜め後ろという割りかし近い席の人で、話したことはあるけれど、特に親しいわけでもなく、単なるクラスメート程度の存在。


 「なに、見てたの?」


尋ねてみたのは、単なる気まぐれだった。黒川くんが真面目に本を見ている、っていう光景が珍しかったからかもしれないけど、なんとなく、聞いてみたかった。
黒川くんが返事するよりも先に、視線を移動すれば、答えはすぐそこにあった。目の前に佇む本棚に並んでいたのは。


 「………絵本?」


意外。感想はその三文字に尽きた。


 「…似合わねーって?」
 「えーと、…まあ、そうだね」
 「ま、確かに。自分でも似合わねーと思うし」
 「でも大抵の高校生男子は似合わないでしょ」


そりゃそうだ、と軽く肩を竦めた彼は、そう言いつつも少しだけ表情に苦みを帯びていて。どこか納得いかないような、困ったような、そんな感じの。変なところを見られたと思っていたのかもしれない。実際、私はたぶん意外と言わんばかりの表情をしていただろうから。でも、そのせいか、そのおかげか、よく分からないけど、なんか、興味が湧いた。隣の黒川柾輝という人に。


 「絵本、好きなの?」
 「好き、っつーか……しょうがなく読んでた、っつーか、」
 「しょうがなく、っていうと?」
 「あー…チビ達にせがまれて読んできかせてたんだよ」
 「へー黒川くんって兄弟いるんだ」
 「ああ、妹と弟。一番下とは結構離れてっから、俺が面倒見ることが多くて。ま、そんでな」
 「ふうん」


口ではそう言いつつも、目の前にずらりと並んだ様々な装丁の絵本は、ひらがなが多かったり、可愛いタイトルだったりで、どうにも黒川くんとうまく結び付かない。頭のなかで、黒川くんに絵本、という組み合わせを想像してみるのだけれど、どう考えても、“有り得ない”、そういう結果にしか辿りつかない。それなのに、


「あー…これ、まだあんだな」


なつかしい、と。そう言って、似合わないと思っていたはずの男の子っぽい手に、ひょい、と絵本を収めた。その姿が、自分のなかのどこかで、とてもしっくりとはまってしまったのだ。そうして、僅かに、本当に僅かに、ふ、と緩めた唇のかたちで、いとも容易く恋のスイッチを押されてしまった。

―――あの日から、彼が、降り積もって消えない。

たとえば、図書室のカウンターに凭れかかった時の、きしり、軋む瞬間だとか。
たとえば、プールサイドで、ぱしゃり、爪先で弾いた水しぶきだとか。
たとえば、遠征前日の、かつり、旅立っていく背中だとか。

全部、何てことない瞬間なのに、まるですごく大事なものみたいに捨てられずに増えていくだけ。全部何気ないからこそ、次から次へと降って、降り積もって、いつも溢れ出してしまいそうになる。
だからといって、面と向かって「好きだー!」なんて叫びだしたくなる衝動に駆られるわけでもなく。これはとても不思議なことなのだけど、そんな衝動の代わりに、物語のかけらが、書きかけの小説の続きが、音も無く降ってくるのだ。


 「?」
 「へ?なに?」
 「…またどっかに意識飛ばしてただろ」
 「そんなことないない、聞いてた聞いてた」
 「じゃあ今何つったか言ってみろよ」


ああ、いた!今、君を探してたんだ!
やあ、ハロルド、今日はどうしたんだい?
実は、僕、旅に出ようと思うんだ。


 「えーと、あれでしょ、妹ちゃんが昨日なんかで、あれしちゃって…何とかっていう、…」
 「いや、それはちょっと曖昧すぎじゃねえ?」


それはとても突然だね。
そんなことない、前から考えていたことさ。


 「……ごめんなさい、聞いてませんでした飛んでました」
 「だろーな」


それにしても物にはタイミングというものがあるだろう?明日は年に一度の感謝祭なんだぞ?
昨日の夜、星が流れたんだ。探しに行くなら今しかないよ。


 「自分で聞いときながら悪かったけどさー…なんでそんな笑うかなあ?」


待て待て、そもそも君はなにを探しに行こうというんだ。
花だよ。
花?
そうさ、あの星が流れ着いたところに、きっとあるんだ。そうにちがいない。



 「アンタが面白えからじゃねえの?」



――― あ、笑ってる。いいな、この笑顔。かわいい。かっこいい。いいなあ。いいなあ。 すき だなあ。
黒川くんは不思議だ。何気ない仕草で、いとも容易く、私の感情を引きずりだしてくる。隣を歩くだけで。目許で僅かに笑ってみせるだけで。ちらり、と視線をよこすだけで。息を吸って吐くだけだった胸が、別のものでいっぱいになって、くるしくなる。そうしてまた溢れ出してくる。

降ってくる。 降ってくる。 ぱらぱら、ぱらぱら、コトバの雨が。

待ってくれ、ハロルド。止めないで、僕はもう決めたんだ。君がどう言おうと僕は行くよ。うん、君はとっても頑固だからね、そう言うと思った。じゃあどうして?止めるわけじゃないよ。ねえ、ハロルド、僕も連れて行ってくれないかい?え、そんな、出来ないよ。いつ帰れるかどうか分からないんだよ?だからだよ、一緒に行きたいんだ。僕には…そうだ、おいしいごはんが作れる。なるほど、旅には必須のスキルだね。そうだろう?それに一人旅は退屈だ、話し相手も必要さ。うん、それは尤もだ。ああ、そうだ、それに君が転びそうになったら真っ先に支えてあげるよ。…それも一人じゃできないことだね。


コトバの雨に呑み込まれて、ぐるぐるになって飛ばされてしまいそうになった時、ふっと、一瞬にして視界が暗転した。それと同時に、後ろにつんのめるように身体が止まって。つられて惰性のままに歩く足も止まって。ぱちぱち、数回瞬いてから、ようやく現実に還って現状判断を下す。
視界はとても暗い。額を押さえつけるように、私の視界を陰らせているのは、他でもない、黒川くんの、手。


 「…くーろかわくん」
 「おかえり」
 「ただいまです。…ごめんなさい、また飛んでました」
 「だろーな」


ほんのちょっと前と似たような会話、それに黒川くんはまた可笑しそうに目を細める。でもさっきより距離が近いせいか、くつり、喉が鳴る音まで聞こえてきて。そしてさっきよりも、もっと、ずっと、たくさん、溢れ出しそうだ。額に乗っかった黒川くんの手がじんわりと熱をもっていて、それがまた私を飛ばしてしまいそうになる。


 「ねえ、なんでいつもこうやって止めるの?」
 「これが一番確実なんだよ」
 「えーそれにしたってさあ」
 「……前、ちゃんと見てみろよ」
 「見るも何も黒川くんの手が、………あー…あと少しで電柱到達、だね」
 「だな」

 「………」
 「………」

 「アリガトウゴザイマシタ、黒川様」
 「いーえ、ドウイタシマシテ」


未だに彼の手は私の視界のほとんどを覆っていて、黒川くんの表情はちょうど指で遮られて見ることができない。けれど、くっく、と喉の鳴る音と、小刻みに揺れる指先で、なんとなく笑ってるのかなって。そう思ったら、指の隙間から見える景色が、ほんの少しだけ色付いた。
彼はきっと知らないだろうけれど、わたしの中で流れる物語には、かならず、あたたかな手を差し伸べる誰かがいる。時にそれは、探し人だったり、足長おじさんのような謎の紳士だったり、背中合わせのライバルだったり、手を繋ぎながら旅をする友達だったり。形も違えば、態度も言い回しも違っているんだけど、それでも確かにそこにいる。―― そう、幻想に浸りすぎて、時折、ふらり、と揺れる自転車をそっと軌道修正してくれる、小麦色をしたおおきな手のような。そんな存在が。
クジラが空を飛んでも、コトバの雨が降ってきても、花を探しに出かけても、ただひとつ変わらないもの。わたしの世界にはきみがいること。




瞼にてのひら


( とどのつまりは、私のせかいを、閉ざすのも、見せるのも、色づけるのも、黒川くん次第なんだ、ってこと )