夢は私に優しく従順だ。それでも所詮夢は夢。いつか終わりが訪れる。






「結人のこと、ずっと、ずっと、好きだった」
「…………突然言われても、のこと、そういう風に見たことねーし」


 幼馴染からそう言われたのは、もう一週間も前の話だ。
 私と結人は親同士が親友で、小さい頃から、それこそ赤ん坊の頃からずっと付き合いがあった。お互いの家まで歩いて数分。ごみ捨ての時に顔を合わせれば立ち話をし、田舎のおばあちゃんから果物が送られてきたら家まで持っていったり、キャンプやらスキーやら家族旅行といえば二家族合同なんて当たり前。
 中学一年の時に一度クラスが別だっただけで、あとは小学校も高校もずっと同じクラス。毎日彼の隣で通学路を歩いた。

 春は桜の綺麗な河川敷へ遠回りをして。
 夏は暑い暑いと文句を言いあいながらアイスを食べて。
 秋は銀杏の香りが立ち込める通学路を、いかに銀杏を踏まずに歩けるかを競い。
 冬はどっちの手が冷たいか、ふたり、じゃれあって。


「おはよー、結人」
「うっす、


 こんな他愛のない挨拶を、何度、彼と繰り返しただろう。
 一週間前、たしかに結人は私の気持ちを受け入れてはくれなかった。わたしは受け入れられなかった事実を受け入れられなくて。家に帰って、ご飯を食べ、テレビを見て、湯船に浸かりながらぼんやりと白い湯気の中であの時の出来事を思い返してみても、布団の重みを感じながら一つ一つ丁寧に結人の言葉をなぞってみても、――何故だろうか、涙ひとつ流れることはなかった。
 その状態のまま、ただ日が沈んで昇ってきただけの次の日の朝。彼はいつもと変わらぬ様子で平然と私の前に現れた。これは夢なんじゃないかと思っても、目の前の状況が夢なのか、そもそも告白した事自体が夢なのか、どっちなのか分からなくて。正直な話、一週間経った今でも分からなくて――だから、あの日の出来事を私は未だ信じられずにいる。


「結人、昨日のドラマ見た?」
「んーにゃ。昨日は見てねーや」
「えー! うっそ、すっごい展開だったのに」
「げっ、マジで?」
「うん。昨日、ぼろ泣きだったもん」
「そういや微妙に目ェ腫れてんもんな」
「え、うそ、やだ」
「すっげー微妙にだけど」


 それから私達はずっとこんな感じだ。
 朝、似たような時間に通学路に現れて、「お前歩くのおっせーんだよ」「うるさい」と言い合いながら隣を歩き、そうして学校まで行く。夕方になったらその逆パターンを繰り返す。――とどのつまりは、一見して、今までと何ら変わりないということだ。あまりの変わらなさ振りに、振られた事実を報告した時の友人の驚きようといったらない。あれはひどい顔だった。とても言い表せたものではない。
 ああ、でも、ほんの少し変わったとするなら、


「……ねえ、結人、やっぱそろそろ付き合っとく?」


 こんな冗談めかした告白で、彼の反応を確かめるようになったことだろうか。どんな答えを返すのか。頬を赤く染めたりするのか。それとも動揺するのか。一挙一動、一挙手一投足まで、具に意識してしまう。


「はいはい、分かったっつーの」


 そんな私の意向を知ってか知らずか、結人は憎らしいほどにいつも通りだ。期待した反応など一ミリも返っては来ず、ふあ、と大きな欠伸をする始末。何てデリカシーの無い男だ。

 ――ちょっとくらい意識しろ!

 ありったけの念を込めて後ろから石ころを蹴飛ばす。幼い頃から結人にサッカーに付き合わされてきたせいか、それとも単なる偶然か、どちらにせよ石ころは見事に結人の膝裏に命中した。


「……っ、て! てめ、、何すんだよ!」
「うるさいなー、自分の胸に手当てて考えてみればー?」
「はあ?」


 ――ああ、でも、そうだ。昔からこいつはこういう奴だった。



*****



 小さい頃から結人は自分の主張をはっきりと伝える男の子だった。行きたい場所があれば行きたいと言うし、やりたい事があれば両親の反対を押しのけてでも有言実行するような、そんな子で。そんな結人に適う同年代は近所には一人もおらず、実質的に彼はこの近辺のガキ大将的存在だった。小学生の頃は放課後になるといつも誰かを引き連れ、目を輝かせながらあっちこっちへ走り回っていたのを覚えている。
 私はといえば、逆にとても内向的な性格で、公園に遊びに行くよりも部屋で絵本を読んでいる方が好きな子だった。そして何よりとても夢見がちな子供だった。道に花が咲いていれば、その度に妖精がいないかと覗きこんでみたり。夜空を眺めては、空にはいくつ星があるのか数えてみたいと願い。物でも風景でも何かと綺麗なものが好きだった。そう、さしずめ、『赤毛のアン』のように。
 けれど、そんな私が何かする度に、


「おっまえ、空に星がどんだけあると思ってんだよ。全部数えられるわけねーだろ!」


 結人は必ずと言っていいほど容赦なく私の言動を一蹴してしまう。――そうだ、結人は昔から、私が何を言おうが、自分の思う事はしっかりと伝える奴だった。
 その度に自分の世界を否定されたかのようで、少し傷付いて、悲しくなったりもしたのだけれど。それでも。


「ま、数えられるかは置いといて、とりあえず行くだけ行こうぜ」
「……えっ、いいの?」
「こないだ探検してたら、すっげー眺め良いトコ見つけたんだよ。それに、明日か明後日あたりに、なんちゃら流星群? だか何だかっつーのが来んだって。お前、そういうの好きじゃん?」
「うん。好き」
「それに俺も見てみてーし。だから、明日の夜、待ち合わせな」
「うん!」


 どれだけ否定されても彼を嫌いになれなかったのは、彼は彼なりに考えて幼い私の願いを汲んでいてくれていたからだ。星が見たい私のために見晴らしの良い場所を探したり。妖精を探したいと言えば、近所のコスモス畑に連れていき、飽きるまで探させてくれる。そして最後には「な、言っただろ?」とちょっと偉そうに、ガキ大将らしい笑みを向けてくるのだ。

 そんな風に結人は幼い頃から今の今まで私に色んなことを教えてくれた。数えきれないほどたくさん、たくさん、たくさんだ。ある日「結人って魔法使いみたいだね」と感謝の言葉と一緒に告げたら、「そんなわけねーだろ」と相変わらずの笑みで一蹴されてしまったのだけれど。でも結人は分かっていない。

 くじ引きで運動会のアンカーに選ばれてしまった時には、速く走るコツを教えてくれて、何日も練習に付き合ってくれた。
 何かあるとすぐに挫けて泣いてしまう私に、泣かないおまじないだと、砂糖の塊のような甘い甘いキャンディーをくれた。
 暇があると部屋に籠り本を読み耽ってしまいがちな私を、窓越しに大きな声で呼び、外へ外へと引っ張り出してくれた。


、来いよ!」


 私の空想でも、何でもなく、結人のその一言で、わたしはどこまでも飛んでいける気がしたんだ。



*****



 朝の二人きりの時間は校門に着くと同時に終わりを告げる。
 結人は友人を見つければそちらへ向かってしまうし、私も似たようなもので友人の背中を見つけると彼に構うことなく小走りで彼女の隣へと急ぐ。


「おはよ」
「おはよう、
「今日ちょっと寒いねー」
「もうすぐ三月になるのにね。もう本当、早くあったかくなれよ」
「本当だよー。早く寒いのどっか行け!」


 寒いのは嫌いだ。ポケットに手を入れて僅かな暖を得つつ、息を吐くとほんのりと白い靄が浮かび上がる。この調子では春までまだまだ遠そうだ。


「そういえば若菜は? 今日は一緒じゃないの?」
「ん? さっきまでいたよ。寺島くんいたから、そっちいっちゃった」
「……もうちょっと一緒にいればいいのに」
「えーいいよ今更」
「でもさー……校門で別れちゃうなんて……なんか寂しくない?」
「ううん、いいんだ」


 隣の彼女の優しさに胸がほわりと暖かくなる。でも私は首を横に振った。強がりでもなんでもなく、べつにいいのだ。
 友人に話しかけられようが話しかけられまいが、私たちは昇降口に辿り着くまでには離れることにしている。別に幼馴染だということを隠しているわけではないけれど、校内では成る丈長く一緒にいないようにしていた。
 理由は子供の頃にはよくある話で。いつだったか結人に少し反抗的だったグループの子が、私と結人があまりにも一緒にいすぎだと、付き合ってるんじゃないかと、そう言ってからかってきたからだ。とはいえ、ガキ大将だった結人がそれに黙っているわけもなく、どうやったかは分からないけれど、数日経つとその子たちは何も言わなくなっていた。それに、私も、結人も、そんな些細な出来事で一緒にいるのを止めようとは思わなかったし、むしろ考えられなかった。
 でも、離れはしないけど、一緒にもいるけれど、今までより少し距離を置こうという話にはなった。いや、具体的に話をしたわけではないけれど、今までと同じく過度にべったり一緒に過ごす、ということを避けるようになったように思う。どちらが先にというわけでもなく、どちらからともなくだったのは、お互いに幼馴染という関係を他の誰かの心無い言動で煩わされたくなかったから。それはふたりの暗黙の了解だった。


 卒業式が間近に迫っていることもあり、今の時期は午前中だけで授業が終わってしまう。かといってまんまと帰れる訳でもない。午後は午後で卒業式の準備をしなくてはならないのだ。
 卒業式まであと数日。ここまで来ると大体のところが既に準備を終えていた。廊下を歩くと壁やら天井やらに幾つも花が咲いていた。
 あんな高い所にどうやって飾り付けしたんだろう。
 帰れないのに準備も終わってしまった私には、そんな風にぼんやりと考え事をしながら廊下を歩くくらいしかやる事が無かった。友人たちはと言えば、部室に用があるとか、彼氏が呼んでるとか、何やかんやと用事があるらしく生憎と誰もいない。けれど「、暇なら地学室でも行ってきたら?」と思わせぶりな言葉と表情を残していくあたり、多分この時間もわざとなのかもしれない。


「……しょーがない。行くか」


 何があるのかさっぱり見当も付かないが、彼女らの言う通り、確かにとても暇なのは事実。ならば行ってみるのも一つの手か。
 にしても、地学室に一体何があっただろうか。校舎の端っこの方にあり、あまり授業も頻繁に無い為、隠れサボリスポットとなっている場所だ。今は飾り付け用の資材置き場兼作業場になっているはずだが。果たして何が待っているのやら。
 三階まで階段を上り、長い廊下を行き、最後の突き当たりを右へ曲がる。隠れスポットなだけあって、ここまで来るととても静かだ。誰もいない教室の前を通り過ぎ、目的の入り口に立ったと同時に、ようやく私は友人たちの意図を知った。


「ゆうと」


 そこにいたのは、私の幼馴染、ただ一人だったから。
 縦に伸びる地学室の奥側半分は大量の垂れ幕やら飾り付け用品で埋まっている中、結人はちょうど入り口から真正面の机に座っていた。私と目が合うと「よう」といつものような返事が返ってきた。


「どした?」
「ん? ……んー、散歩、かな?」
「疑問形かよ! 自分のことだろーが」
「そういう結人は? どうしたの?」
「見て分かんねーのかよ。仕事押しつけられてんの。ったくよー」


 結人が椅子の横には今まで作ったらしき紙製の花飾りがこんもりと床上に積まれていた。けれど花飾り用の色紙も同じくこんもりと机の上に積まれている。それを見て素直に「なるほど」と頷いた。すぐに「なるほどじゃねーよ」と鋭いツッコミが返ってきたけれども。
 結人は自分の隣の椅子を引き、色紙を半分手に取ったかと思えば、それを隣にドサリと乱暴に投げるように置く。


「お前も手伝え」


 相変わらず強引な男だ。手伝ってくれない? という疑問系でもなく、手伝って欲しいんだけどというお願いでもなく、手伝えと命令形で言うあたりがいかにも結人らしい。小さい頃から変わらず強引だ。
 それでも、結人の手が、早く、と言わんばかりに椅子の座面を叩けば、昔も今も私は彼に従うしかないのだ。私が素直に椅子に座るのを見て、結人は満足気に「よし」と笑う。それを見て私の胸がきゅっとなるのも幼い頃からの習い性からだろうか。


「それにしてもすごい量だね」
「だろ? 一人じゃ終わんねえっつーのな」
「他の人は?」
「あー、まあ、ちょっと押しつけられてなー」


 結人が歯切れが悪くなる時は何かを誤魔化したい時だ。そういう時は私も深く聞かない事にしている。「そっか」と短く返して、山積みの色紙を手繰り寄せる。
 それに、とても多分だけれど、彼がここにいる理由には何となく見当が付いているのだ。――私をここへと導いた友人たち、彼女らが彼に仕事を押し付けた犯人だろう。入学した時から同じクラスで仲良くつるんでいた彼女たちには、今までも何度か結人と二人きりにさせられていた。それは悪戯とかそういうのではなく、私の長い長い片想いを知っているからこその行動だった。そして私も友人たちが恋に悩んでいる時は同じように行動した。文化祭の後夜祭でダンスを踊る時にペアになるようにくじを交換したりとか。体育祭で応援席の一番前を確保したりだとか。一緒にときめいて、悲しんで、悔しがって。高校に入ってから私の恋は私だけのものではなかった。小さい頃からずっと秘めているだけの恋心を結人に伝えようと思ったのは、彼女たちが居たからこそだ。
 だから、この状況も彼女たちが自分のためにしてくれたのだと、そんな風に思えて、鼻の奥からツンとしたものがこみ上げる。もう振られたのに。行く先なんて何もない恋なのに、彼女たちはまだ私の為に動いてくれるなんて。


「…………」
「…………」


 静まりかえった部屋の中で、シュッ、シュッ、紙擦れの音だけが響く。結人の長い指が器用に動くのを時折眺めては、目が合って、「なんだよ」と悪戯っぽく笑われても、返事なんて出来ずにただ目を逸らす。
 ふたりだけの空間。その事実を痛いくらいに感じてどうしようもない。
 結人には悪いけれど私にはこの時間が嬉しくて仕様がなくて。でも気の利いた会話を振ることも出来ず。かといって愛想よく笑いかける事も出来ない。この状況下、平然を装うだけで今はいっぱいいっぱいなのだ。


「つーかさー、これって一年の仕事じゃねーの?」
「まあまあ、いいじゃん。ちょっとくらい手伝っても」
「可愛い後輩のためってか?」
「そうそう」
「バーカ」


 二人だけの時、結人の声はいつもよりも少しだけトーンが低くなる。
 私はそれが好きだった。普段通り装っていても、胸の奥では心臓の動きがいつもよりも大きくて。結人の囁くような響きが掻き消えてしまうんじゃないかと、少し心配で、たまらなくくるしくなる。


「……ねえ、結人」
「んー?」
「何でそんな作るの速いの?」


 おかしい。明らかにおかしい。
 こうして喋っている間にも結人の指は着々と花弁を作っていって、最終的にはひょいと投げ捨てられる。花はふわりと落ちていって、また一つ、彼の隣で花の山が高くなる。


「しょーがねえだろ、器用なんだから。と違って何でも作れちゃうんですー」


 確かに私のすぐ横にある花の山は結人より明らかに低い。


「私は速さより丁寧さ重視なんですー」
「うそつけ。お前、昔から図工の成績最悪だろ」
「結人こそ、こないだの英語のテスト赤点だったくせに」
「今、それ関係なくね? つーか、何で知ってんだよ」
「結人のおばさんに聞いた」
「はあ? ……ったく、あのおしゃべりめ」


 そんな会話をしている合間にも結人の手のなかでは一枚、また一枚、紙の花弁が立っていき、またひとつ、ふわり、と花が落ちる。結人の方が作業スピードが速いはずなのに、不思議とその出来上がりは綺麗だ。
 赤。黄色。ピンク。青。オレンジ。
 いつしか作業に夢中になるにつれ、口数が減っていく二人の空間に、ふわり、ふわり、と花が咲いていく。積もって。積もって。降り積もって。どこまで行くのだろう。


「ねえ、結人」
「ん?」
「すきだよ」
「……ああ。知ってる」


 互いに視線を送ることもなく、作業の手を止めぬまま、静かな空間に二人の声だけが響く。その瞬間、ふわり、とまた一つ花が咲いた。
 顔を見なくても、交わす言葉が少なくても、胸の奥が締め付けられるようにくるしい。きっと私の中でも咲いているんだ。積もって、積もって、今すぐにでも溢れ出してしまいそう。


「ね、見て見て」


 片手で彼を手招きし、もう片手で床に積まれた花をひとつ手に取る。花弁を潰してしまわぬように裏側から中心を柔らかく摘み、自分の耳の傍へと持っていく。偶然手に取ったのは淡い桜色の花だった。普段は決して付けないような可愛い色合いの花。


「どう? 可愛い?」


 業とらしく大袈裟に首を傾げる私に、結人は、っは、と一つ息を吐いてわらった。


「ブサイク」


 ――すきだよ。 ねえ、わたし、結人が、すきだよ。


「結人、すきだよ」


 心がそのまま喉を通り越して声になる。


「……知ってる」


 つい数分前に聞いたのと同じやりとり。
 作業を止めない長い指。合わない視線。さっきまではそれでいいと思っていたのに、今になって途端にそれが悔しい。


「っ、知ってるって何?!」


 気が付いたら勢い良く立ち上がっていた。椅子が真後ろにガタンと転がる。結人が座ったまま驚いたように目を丸くするのを真正面から見下ろす。ここまで来たらもう止まれなかった。


「結人は私の何を知ってるの? 好きって一言言っただけで、全部分かるって何よ! 一週間前だって、その後だって、何も聞こうとしなかったくせに。中途半端にしたまま放ったらかしなくせに。恋愛対象としては見れないって言ったくせに、なのに、」


 一週間、蓋に蓋をし続けたものが一気に噴き出した。感情がごちゃまぜで息苦しくて仕方ない。でも涙は出なかった。泣きたいのに、泣けない。振られたはずなのに振られた気がしない。私はあの日からずっと宙ぶらりんのままだ。


「…………私だけとくべつって、なによ、何なの、もぉ……」


 だって、一週間前の、あの日、確かに彼は言ったのだ。
 ――――でも、のことは、他の誰よりも特別だと思ってる。と。


「…………、っ」


 言いかけて、止める。結人の呼吸でそれが分かった。
 言葉と同じように彼の手も私の方へ伸びかけたけれど、すぐに彼の膝元まで吸い込まれていってしまった。


「言葉の、まま、だろ」
「それが分かんないの! そういう風に見れないって言ったよね? なのに特別なの?」
「そうだよ」
「なにそれ、……いみわかんない」
「分かれよ」
「っそ、んなこと言われたって分かんないよ!」
「ばっ、押すな!  っ、」


 無意識のうちに結人ににじり寄っていたらしい。傾いた椅子が重力のままにコンクリートの床を叩き打つ。大きな衝撃音が瞬間的に室内を満たす。
 けれど今の私にはそんなことはどうでもよかった。倒れた椅子から逃れるように床を這いずる結人を、自分自身の重力で持って彼が立ち上がるのを阻む。「」と呼ぶ声も「おい、やめろって」と押しのける手を更に強い力で押しのけ、自然と結人のお腹の上に馬乗りになる形となった。「結人」と彼の名前を呼ぶと諦めたのか、結人の手がぱたりと床に落ちる。


「こないださ、」
「うん」
「……お前の、ダチにも、同じ事言われた」


 この体勢のせいか、いつもより結人との距離が近くて、唇の些細な動きで結人が奥歯をぎゅっと噛んだのが分かる。


にあんな中途半端なこと言わないで。好きなら付き合えばいいし、そうじゃないならちゃんと振れよ、つって」
「……そう、だよ」
「お前のこの状態もヒデ―けど、お前のダチなだけあってアイツらもヒデ―んだぜ。泣きながら平手とかさ、」
「…………」
「スゲー効いたっつの」


 結人は顔の上で両腕を組んだけれど、その隙間から結人の顔がくしゃりと歪むのが見えてしまった。多分、私も似たような顔をしているに違いない。
 誰もいない地学室。結人にだけ課せられたノルマ。遠く聞こえる喧騒。今、この状況でさえ。結人を押し倒したのは、私であって、私ではない。――見詰め合いながら息を吸って吐くだけのこの瞬間すべてが彼女たちからの贈り物なのだ。


「わたしも、中途半端は嫌だよ、結人」


 曖昧にしたまま濁してしまっている結人。
 関係を変えようとしたくせに答えを聞き出せないままの私。
 弱虫な幼馴染二人への贈り物。逃してしまわぬように更に強く結人の服を掴む。だって。そうじゃないと。そうじゃないと、このままじゃ、


「……わたしたち、もうすぐ卒業なんだよ」


 卒業したら離れ離れになるんだよ? 続くはずの言葉は音にならなかった。
 垂れ幕やら花飾りやら日に日に数を増やしていくにつれて卒業式が迫っているのだと否でも応でも感じさせる。それを見る度に別れの予感に飲み込まれそうになる。
 今まで二人で積み重ねた色とりどりの花飾りは、他の誰でもない、私たちの卒業の為に作られているのだ。


「ねえ、言って。ちゃんと言って」


 遠く離れても私はきっと結人が好きだろう。けれどそれだけでは駄目なのだ。
 いつから昔のように夢を見れなくなってしまったのだろうか。離れても必ず何処かでで会えるだなんて、お伽話のように結人が王子になって迎えに来てくれるだなんて、どうしても思えないのだ。
 結人の制服を掴む手はみっともなく震えていた。別れに怯える手で夢のとば口を必死に掴む。――けれど、


「っ、特別なんだよ!」


 突然発せられた大声に身体が反射的に一度だけ大きく震え、――その弾みで必至に掴んでいたはずの繋がりは容易く離れていってしまった。
 結人の息遣いが聞こえる。まるでさっきまでピッチを駆け回っていたかのような荒く乱れた呼吸。吸って、吐いて、ひゅっと喉笛が鳴るのが、夢が終わる音のように聞こえた。


「お前と、ずっと一緒に育ってきて」


 そう、私と結人はずっと一緒だった。そして一緒にいる間、私はずっと結人が好きだった。
 結人が好きで、大好きで、大切だから、ずっと一緒にいたくて。ずっと一緒にいてほしくて。だから付き合ってほしかった。一緒にいてもいいよ、って言ってほしかった。
 ――でも、あの日、告白したあの夜に泣けなかったのは知っていたからだ。結人は私の気持ちを受け取らないだろうと、なんとなく、知っていたから。だって、わたしは、ずっと見てきたのだ。彼を。春も。夏も。秋も。冬も。ずっとずっと、ずーっとだ。
 本当は心の何処かで気付いていたのだと思う。でも気付かない振りをしていた。私達は近くにいるのに、ずっと一緒にいたのに、子供の頃のように純粋に心を交わせなくなってきたこと。一緒にいるのは楽しいけど、居心地がいいけど、大切だけど、それだけじゃ駄目なんだと。何事もはっきりと口にするはずの結人が曖昧にしているのをいいことに、彼の隣を離れる勇気が無くて見て見ぬ振りをし続けていた。
 彼を全部知っているなんて私の思い上がりだ。成長するにつれてどんどんと知らない彼が花の山のように積み重なっていく。それなのに来春から結人は大阪で私は地元の大学だ。二人の距離が離れたらもっと手が届かなくなる。分からなくなる。そう思ったら不安でたまらなくて。一緒にいたくて。分かりたかったのだ。彼を。どうしようもなく。


「……好きとか、そんなんじゃねーんだ」


 だいすきな結人が私の下で顔をゆがめている。彼は苦しいのだろうか。それとも悲しいのか。こんなに近くにいるのに分からない。でも、すごく、痛そうだ。
 「結人」と彼の名前を呼ぶ。視線がぶつかって。彼の身体がゆっくりと起き上がって。手を伸ばして。指を絡める。お互いがお互いを思い切り握りしめる。まるで祈りの姿のようだと。どこか冷静さを保ったままの部分でぼんやり思った。結人の手はひんやりと冷たくて。逆に私の手は熱を帯びていて。触れた温度は溶けて混じりあっていくのに、どうして、心だけ、溶けていってくれないのだろうか。


「大事すぎて分かんねーよ」


 それは曖昧なようでいて、確かに一週間遅れの告白の返事だった。


「うん」


 それだけ告げて、ゆっくりと瞼を落とした。
 もっと何か言いたいことがあったような気もしたし、これが全てなような気もした。
 結人の喉から絞り出すような声が、「」と私を呼ぶ声が、静かな部屋にひとつ落ちる。落ちた言葉は見えない波になって私の涙腺を震わせ、――そして、ようやく、本当に本当の意味で、わたしは恋を失ってしまった。







From.Anne


( さようなら さようなら だいすきなきみ ゆめみるわたし )