秘密とともに、それは閉ざされた
白い壁。上へと辿ってみれば白い天井が頭上を覆っている。ここは私の部屋だ。ベッド、本棚、中央に少し大きめの長机。それ以外に女の子にありがちな可愛い雑貨やぬいぐるみなんかは特に見当たらない。部屋に家具をあまり置いていない所為か、どこかがらんとしていた印象を抱かせる。
「ねえねえ、机に向かってばっかいないでそろそろぼくの方も見てよ」
長机の前に座る私へ、隣に座っていた彼――潤慶は私と目が合うと、ゆるりとその目尻を下げた。
「そんな事言ったってレポート終わらないんだもん」
「いーじゃん、別に。、もう単位全部揃ってるんでしょ?」
「そうだけど。でもゼミのやつだから出さないと駄目なの」
えー、と不満気に声を漏らすユンを振り切り、私は再び机に向かう。
そういえば、彼も一番最初にこの部屋に入った時、殺風景な部屋だね、とかなんとか言っていたような気がする。でも、もう何年も前の話だから、何と言ったか忘れてしまった。
ユンとはそれくらい長い付き合いだ。何年越しの付き合いかはやっぱりもう忘れてしまった。とにかく長い、長い付き合いなのだ。
さてどこまで進んだだろうかとペンを握り直す。静寂を取り戻した室内に二人分の呼吸。――見られて、いる。いや、気にするな、切り替えろ。そう言い聞かせながら机上のノートを見詰めるけれど、生憎と文字がとんと頭に入ってこない。ユンが、見ている。私とユンは長机を前に二人並んで床に座っていた。彼の方へ少し足をずらしてしまえば、触れてしまいそうな距離だ。
喋らない。動かない。でも分かる。ユンは今、こちらを見ている。
なんだろう。これは。息が詰まりそうだ。こんなことなら普通に話しておけばよかった。こんな空気を望んでいたわけじゃない。彼の気配が視線に乗ってじりじりと迫るのが分かる。
「」
ユンの声がやさしく私の名前を響かせる。
彼の方へ顔を向けると、やはり、彼は私の方を見ていた。声と同じくらい優しい眼差し。静かな部屋に二人分の呼吸。身動き一つで触れてしまいそうな距離。
、ともう一度私の名前を呼んで、ユンの長い指が私の頬を目掛けて静かに伸びてくる。
「触っちゃ、だめ」
私の言葉を合図に、ピタリ、と彼の指が止まった。
「どうして?」
制止したままの状態で彼は至極不思議そうに尋ねた。でも駄目だ。
「駄目なものは駄目なの」
そうだ。駄目なのだ。触ったらいけない。触れたら終わりな気がする。
そのまま見つめ合うこと数秒。先に折れたのはユンだった。大きな息を吐き、「まったくは頑固だなー」と、降参とばかりに胸の前に両手を掲げた。その代わりと言わんばかりに彼は今度は机の上に身体を乗り出すように距離を一気に詰め、ついさっき自分へと伸ばされていた指が机の上のノートをとんと叩いた。
「そういえばのゼミって心理学系だっけ?」
ユンは頬杖を付きながらにっこりと微笑む。構え、ということだろうか。まあ、さっきみたいな雰囲気になるよりは普通に会話をしていた方がいいかもしれない。いや、絶対にいい。あんな息の詰まる思いは、もう、したくない。素直に「うん」と首を縦に振った。
「今はどんなのやってるの?」
「この間は後輩と一緒にちょっとした観察と調査の練習かな。学食の入口に張り込んで自動ドアと手動ドアのどっちにどんな人が通っていくかとかそういうの」
「へえ」
「一人だとどっちを通るか、集団だとどっちか、複数人でもカップルに限定してみるとどうか、何故そちらを選びたくなるのか。考えてみると結構面白かったよ」
「なるほどねー。確かに面白いかも」
「ちなみにユンはどっち派?」
「えー改めて言われると考えちゃうなあ。うーん……でもと一緒だったら手動がいいね」
「なんで?」
「先に行ってのためにドアを開けてあげられるでしょ。ぼくがジェントルな所をアピールする良いチャンスじゃない」
意外な一言に思わず瞬いてしまった。それでも細められた目許が茶目っ気に溢れていたから、次の瞬間には「なにそれ」と笑ってしまうのだけれど。
アピールなんてしなくてもユンが紳士なことなんてとっくに知っているのに。時折意地悪い仕草を交えることもあるけれど、何だかんだ言って彼はとても優しい人だと思う。道路を歩く時は車道側を歩いてくれるし、外に食事に行けば必ずと言っていいほど私に財布を出させようとはしてくれない。いつもどこか含んだように笑み、やんわりとした言葉で言いくるめられてしまう。最終的には、ぼくの方が一つ年上だからね、と余裕ある態度で締めくくる。私はユンのそういうところがとても嫌いだった。
ユンは頬杖をつきながらこちらを見ている。それに倣って、私も頬杖をつく。
ユンがノートに視線を落としたら、私も落とす。
シャープペンを手の上でくるりと回したら、同じように回す。
座っていた足を少し斜めにずらす。
「えーなになに? どうしたの?」
「ちょっとね、実験」
「これも?」
「そう」
鏡に映すかのように彼の動作を真似る。最初は少し大袈裟に伸びをしてみたり、そんな何てことない動作だったのに、途中から段々とエスカレートしていって、ウインクしたりだとか、投げキッスをしたりだとか、終いには二人可笑しくなってお腹を抱えて笑ってしまった。
「もう! ちょっとやめてよ、ユン」
「そういうだって」
「私のは実験だって言ったじゃん」
「その割には楽しんでたじゃない」
未だ冷めない笑いが二人の肩を揺らす。「もう」とユンの肩を軽く小突けば、「なーにー」と間延びした声で小突き返される。それがまた先程の応酬の繰り返しのようでまた可笑しくなってしまった。
「は昔から変わんないね」
ユンはそう言って柔らかく目を細める。――まただ。わたしは、ユンのそういう余裕ぶってわらうところが、とても、とても、
「……何してるの」
コン、と扉を叩く音と共に現れた一人の声が私の思考をシャットアウトした。
「ヨンサ」
音がした方へと視線をやれば、ユンが呼んだ通り、そこには英士が扉へ凭れるように立っていた。「何って別に……ねえ?」と、へらっと抜けた笑みで顔を見合わせる私達二人とは対照的に、英士の顔に笑みはない。まあ、英士が満面の笑みで登場したならそれはそれで困りものだけれど。だからといって、顔を合わせてすぐに溜息を付くのもどうかと思う。
「二人の声、下まで響いてたよ」
「えっ、うそ」
「本当。のお母さんも呆れてた」
母がリビングで「あの子ったら……」と溜息を吐く姿が容易に想像出来て辛い。母の性格からすれば一緒にいた英士に、あの子ってば本当に昔から何かとああでこうで、あの時はああしてこうして、と私の悪口ついでにあれこれと関係無いことまで長々と語ったに違いない。私とは正反対で、母はとてもお喋りが好きな人なのだ。そう言われてみれば、どことなしか英士の顔に疲労の色が見えるような気がして、何だか無性に申し訳なくなって「ごめん」と言わずにはいられなかった。英士は「いいよ別に」と言って、今度こそ本当にちいさく唇に笑みを乗せた。
「じゃあのお母さんに嫌われる前にぼくはそろそろ帰ろっかな」
「帰るって言っても俺の家でしょ」
「何言ってるの。ヨンサの家はぼくの家、ぼくの家はぼくの家」
「なにそのジャイアニズム」
「……あーやだやだ、ヨンサってば冗談通じないんだから」
「はいはい」
「あ、ぼく、コンビニ寄ってから行くからヨンサは先帰ってていいよ」
「分かった」
英士とユンの間で流れるように交わされる会話を私がぼんやりと聞いている間に、ユンはいつの間にか腰を上げていて、私が何か言うより先に「じゃあね、」とやっぱりあの余裕綽々の笑みでひらりといなくなってしまう。
――ユンは、いつも、そうだ。いつも、そうやって、私が何を思おうが全然気にしない素振りでいなくなってしまう。そうして知らぬ間にまた遠い国へと旅立ってしまうのだ。
今日もきっといつもと同じだ。――同じ? 本当に? このまま行かせてしまっていいの?
「……行くの?」
私の心を読み取ったかのような声にびくりと肩が跳ねる。いつの間にか伏せてしまっていた顔を上げると、眉間に皺を寄せた英士と目が合った。
英士が言ったのは、私がユンを追いかけていくか、ということだろう。ううん、そうに違いない。でなければ、彼はこんなに難しい顔はしないはず。私は行くのだろうか。ユンを追いかけていきたいのだろうか。今まで何度となく見送り続けてきたあの人を、わたしは、追いかけていきたいのか。
「行った方がいいよ。ユンのためとかじゃなく、のために」
どうして。英士はやっぱり私の心が読めるに違いない。間抜け面でぱちくりと瞬きをしていると、英士が少しだけ眉間の皺を和らげて「早くした方がいいんじゃない?」とやさしく追い打ちをかける。
ここまで言われて動かないわけにはいかない。いや、彼の言うように、動かないといけないんだ。何より私自身のために。
「ありがとう、英士。すぐ戻ってくるから」
その台詞を告げると同時に部屋を駆け出していった私に、「うん」と微かな返事をした英士がどんな表情をしていたかなんて知る由もない。
******
ユンに初めて出会った日を私は覚えていない。ランドセルを背負っていた時代のいつかだということだけは確かなはずなのだけれど。
英士と私は家が隣同士、所謂幼馴染というやつで、英士と出会った日なんてユン以上に記憶に残っていない。親同士がそれなりに交流があり、私と英士も親が話している間は二人で遊んでいたりしていた。だから、英士の従兄であるユンが彼の家へ遊びに来た時に、私と会うのは最早必然だった。
「―――。―――、――?」
「、ユンがこれからアイス買いに行くけども一緒にどう?って」
「い、きたい!」
最初、ユンは日本語がほとんど話せなくて、英士とユンの会話は私にとって宇宙語以外の何物でもなかった。ユンがからからと笑い、英士が呆れているのを、私はいつも、楽しそうだなあ、とぼんやりと眺めていることが多かったように思う。
それでも彼と話したくないわけではなかった。むしろ分からないからこそ話したくて堪らなかった。
「―――?」
「え、なに? アイス?」
「――。――――」
「……ちょっと食べる?」
「―――!」
「えへへ、はい、あげる」
話したいけど、どう伝えたらいいか分からなくて、あの頃の私は身振り手振りでどうにか彼に伝えようと必死だった。やっぱりジェスチャーだけでは伝わらないことも多くて、結局英士に通訳を頼んだりもしたけれど、でもその分伝わった時は嬉しくて嬉しくてたまらなかった。
――私は、いつでも、ユンを追いかけるのに必死だった。
彼が何を伝えたいのか、知りたくて、彼の動きを必死で真似をした。そんな私をユンはいつもどこか可笑しそうに眺めていた。必死な私とは正反対の、あの余裕のある笑みで。ユンが私を軽く扱っているわけではないと分かっていたし、彼は彼なりに私の拙いジェスチャーを読み解こうとしてくれていたと知っていたけれど。それでも。追いかけるのはいつも私の方だった。
いつも私だけが必死で。ユンは余裕綽々の笑みで。それがとても嫌だった。
追いかけても、追いかけても、たまに追いついたと思う時があっても。限られた滞在期間が過ぎてしまえば、彼は私の前からするりと姿を消してしまう。だから、わたしは、――彼がジェスチャーを必要としないくらい日本語を身に付けた時には、追いかけるのを、止めてしまっていた。
それから、ランドセルも背負わなくなり、中学生活も半分を過ぎようとした時、英士から告白された。
私と英士はたぶん似た者同士なのだと思う。あまりたくさん友達を囲う方ではなくて。そんなに口数が多い訳でもなく。でも大事だと思った人はとても大事にする。私たちはとてもよく似ていて、昔から一緒にいることもあってか、お互い空気のように寄り添える存在だった。英士との間に心臓を揺さぶられるようなときめきがあったわけでは無かったけれど、英士の隣はとても居心地が良くて、付き合うには十分だった。
毎年欠かさず、ユンは英士の家へとやって来た。けれど、彼がいるのは一年の内で長くてもたかだか数週間。その期間さえ乗り切れば、私の心は平穏だった。――例え、彼が現れる度に、どこか深い奥底を揺さぶられるような思いをしても、その後には必ず穏やかな時間が訪れるから。
それでも転機は訪れる。そしてそれはいつも唐突だ。
久々に英士が広島から帰省すると聞いて、私はとても浮かれていた。「もうすぐ着くから部屋で待ってて」という彼のメールの文面通り、部屋で彼が以前に美味しいと言っていた紅茶を温め、母と作ったお菓子を並べ、殺風景なはずの長机をちょっとしたパーティー仕様にしながら待っていた。程なくして彼は現れ、当たり前のように私の部屋へ入り、隣に座り、あれこれと近況を話し合う。
元々お互いにそれほど口数多い方ではなかったが、この日の英士は余計だった。何かあったのだろうか、疲れているのか、と思っていた。不意に会話が途切れ、数秒の沈黙の果てに英士の口から紡がれる言葉を聞くまでは。
――が大学を卒業したら、……俺たち、結婚しない?
信じられない言葉を聞いたと思った。息が止まってしまうかと思った。
英士との結婚を考えなかったと言ったら嘘になる。恋人でなくとも付き合いだけで言ったら誰よりも長い。それに何より英士はとても魅力的な男性だ。友人や家族も英士といつ結婚するのかと聞いてくることも少なくなかったし、私だって英士との具体的な結婚生活を想像したことだってある。それになのに。それなのに、
――ごめん、ちょっと考えさせて。
私はすぐに答えを出すことが出来なかった。今でもまだ保留のままだ。
何度も悩んだ。どうして答えが出なかったのだろうかと。英士との結婚が嫌なわけじゃないのに。どうして。悩んで、悩んで、悩みまくった。でも、今ならその理由が分かる。
******
家を飛び出して数分。こんなに走ったのはいつ振りだろう。久しぶりに走った所為で息が切れる。苦しい。いつの間に日が暮れたのだろうか、空がオレンジ色に染まりつつある。暗くなると探しにくくなる。
肩を上下に揺らしながら、コンビニの一つ手前の交差点でようやく目的の背中を見つけた。
「ユン」
名前を呼ぶと、ユンは此方を振り向く。
「あれ、どうしたの? もアイス食べたくなっちゃった?」
でもその表情はいつもと同じで。まるで私が来ることなんて分かっていたみたいだ。
ユンは鼻歌を歌いながらコンビニの袋をカサコソと鳴らして、そこから「はい」とアイスを差し出した。昔、三人でよく食べていた、青い青いパッケージのソーダアイス。でも私はそれに首を横に振る。
「ちがうよ。そういうのじゃなくて」
「じゃあどういうの?」
どういうの。――どういうの、だろうか。分からない。
走っている間、息苦しい中で、どうしてこんな思いまでして追いかけているんだろう、って思った。英士の言う通り、"追いかけた方がいい"とは思ったけれど、"追いかけたい"と思っていたのだろうか。答えはまだ見つかっていない。
その代わりに、一つだけ分かったことがある。
「……実験の結果を言い忘れた」
「さっきの心理学のやつ?」
「うん。さっきの、っていうか、今日の、だけど」
「ああ、昨日メールで言ってたやつ? 昨日はびっくりしたよー。"明日一日付きあってよ。私の実験台になって"だもん」
昨日彼に送ったメールの本文そのままを暗唱し、ユンはからりと笑った。
「う、その誘い方は……自分でも、ちょっと微妙だと思うけど……」
確かに"実験台になって"はちょっとあんまりだったかもしれない。気まずげにしていると「面白くてよかったけどね、思わず笑っちゃった」とフォローにならないフォローが返ってくる。
彼の言うように、今日ユンを誘ったのは私だ。レポートをしながら、彼に触れるなと言いながら、興味がない振りをしながら、私は今日一日彼を探っていた。本当はレポートなんてどうでもよかったんだ。実験という名目で彼を知りたかっただけ。
「じゃあ結果出たんだ? どうだった?」
「……わからない」
「えー、なにそれ」
「ユンのこと、いつまで経ってもわからない。……わからないよ」
ユンのこと、知りたかった。分かりたかった。
でも、分からなかった。考えても、考えても、分からなかった。
「ホントに?」
私はこくりと頷く。
一歩、一歩、ユンが足を進める。じゃり、とアスファルトに砂が擦れる度に距離が縮まっていく。
「ぼくのこと、全然分かんなかった? これっぽっちも?」
私は再び首を縦に振る。
だって分からなかったんだ。彼の言うように、これっぽっちも、分からなかった。
「さっきの実験ってさー、もしかしなくてもミラーリング?」
「……知ってたの?」
「がどういうの勉強してるか知りたくてさ、ぼくもちょっと勉強してみたんだ」
「そっか……うん、そうだよ」
ミラーリング効果。
好意を寄せている相手の仕草や動作を無意識に真似てしまうこと。
また、同じ仕草や動作をする相手に好意を抱きやすいこと。
でも、それだけじゃない。
パーソナルスペースを崩して、物理的に距離を近付けること。
座る時は向かい合わせよりも隣合わせに座った方がいいこと。
吊り橋効果までは望めなかったけれど、それもこれも全部恋愛心理学に基づいた行動だ。相手に好かれるにはどういった行動をすればいいのか。
ユンが、わたしを、どう思っているのか知りたかった。――わたしは、小さいころから、ユンがすきだったから。
よくよく考えてみると、恋を自覚する前から、私はユンの仕草を必死で真似ていた。あの頃からたぶん私はユンに好かれたくて堪らなかったのだろう。
「そっかー、分かんなかったかあ」
私にしては結構勇気のいる告白だったと思うのだが、彼は素知らぬ顔で視線を放り上げて思案しているだけ。
そう、私が仕草ひとつにどれだけの感情を込めようが、彼はいつもこんな風で。記憶する限り、彼が私に応えてくれたことは一度もない。いつも余裕綽々に微笑むだけ。私の気持ちなんてとうの昔に知っていたくせに。だから、わたしは、彼が今浮かべているような、その笑みがとても嫌いだった。
知っているくせに。分かっているくせに。そのくせ私には気持ちひとつ見せないくせに。尚も「」とやさしい声で私を呼ぶのか。
「ぼくはね、追いかけるよりも追いかけてきたのを捕まえるのが好きなんだ」
突然始まった告白に目が丸くなる。「……え?」と短く聞き返すと、珍しく苦い笑みが彼に宿る。
「相手の子がぼくの事を追いかけて追いかけて追いかけて、もう駄目だって思った時に捕まえてあげるの。そうするとその子もようやく手に入れたんだーって思うじゃない? それに必死になってる子ってかわいいよね、意地悪したくなる」
「それって……大分性格悪い、よね?」
「うん、よく言われる」
更に深まる自嘲的な笑み。本当に珍しい。やはり従兄ということか、その笑みは英士がよくしているもので、その表情も彼に良く似ている。
「だから、今日の態度見て"やったー!"って思ったよ」
「…………」
「がぼくをまた追いかけてきてくれた」
「やっと捕まえられる」――その台詞が早かったか、ユンが私の腕を引くのが早かったか。どちらにせよ、気付けば私の身体はユンの胸元へと傾き、その腕の中へ閉じ込められる。
突然の出来事に頭が一瞬ショートした。文字通り、全部吹っ飛んで、頭が真っ白になった。でも。やんわりと、でも確実に、私を捉える腕の強さ。布越しに伝わる温もり。「」と今まで聞いたことのないほどの甘い囁き。――それらを感じ取った瞬間、反射的に彼の胸元を押し返していた。
「……っや、だ!」
力いっぱい押し返したのにユンの身体はびくともしなかった。むしろそれを受けて更に腕の力が痛いくらいに強まる。ユンの身体が耳元にぎゅうぎゅうに押し付けられて、元々身長差があってか、彼の顔はどうやっても見えない。
「なんで? ぼくのこと、好きなんじゃなかったの?」
「ユンのこと好きだったよ」
「じゃあ、」
「好き"だった"。……もう、昔の話だよ」
そうだ。昔の話なのだ。
小さい頃からユンが好きで。でもユンの気持ちが分からなくて、告白する勇気もなくて、自分で自分の気持ちを持て余していた。英士と付き合ってからも、それはそれは変わらない。しこりのように胸の何処かにいつもユンがいた。
だから、ずるいかもしれないけど、確かめたかったのだ。心理学の実験だって嘘まで吐いて。自分の中にユンが、ユンの中に自分が、いるかどうか確かめたかった。
ユンを追いかけなくては、と思った理由も同じ。そして多分だけど、英士はそんな私の心を知っていた。幼い頃から私を知る彼だから。ユンを好きだった自分を知っている彼だから。だからこそ、彼は私に「私のために」とやさしく追い打ちをかけたのだ。
「……ヨンサがいるから?」
「え、……?」
「ヨンサと付き合ってるから、だめなの?」
ぐ、とまた一段と強まる腕の力。息がくるしい。
「ぼくは、ずっと、ヨンサがを好きだって知ってたよ」
「ユン……ねえ、くるしい……」
「でもはぼくが好きだと思ってたし……まさかヨンサと付き合うなんて思ってなかった。ぼくだってヨンサと同じくらいずっとのことが好きだったんだよ? まあ、伝わってなかったみたいだけど」
「……ユン、」
「ねえ、は本当にもうぼくのこと好きじゃないの?」
僅かにユンの腕の力が緩められる。上半身を離せるだけの余裕が出来て、ようやく彼の顔を見れるようになった。黄昏時の中でも分かる上気する頬。熱っぽい視線。それらが彼の言っていることが事実なのだと。ユンは私のことが好きなんだと。初めて、分かったような気がした。ずっと昔のいつかに夢見た光景がすぐ目の前にある。鼓動が速い。息が詰まりそうだ。
「ユンのことは、本当に好きだったよ。ずっと好きだった。……だから、今でも、こうやって抱き締められたりすると、自分でも驚くくらいすごいどきどきする。英士は……付き合ってるけど、すごい好きだけど、……こういうどきどきみたいなのはない」
「じゃあ、」
「っでも! ……恋じゃないけど、どきどきだってしないけど、わたしは……英士が好きなの」
ユンが心から好きだった。それは紛れもない事実。今でもこんな風に熱っぽく見られれば自然と鼓動が速くなる。
でも、好きだったのは過去の話だ。今日、ユンといて気付いてしまった。私はもう彼に恋をしていないのだと。今感じているときめきだって、きっと一過性のものだ。それに――ユンの腕の中にいるのに、頭を過るのは私を送り出そうとした英士の姿。私の恋心を知っていたのに、もしかしたら追いかけてそのまま私がユンへと気持ちを移してしまうかもしれないのに、それでも英士は私を送り出そうとした。全てを知った上で。
「っごめんね、ユン。……わたし、英士が大事なの、っ! 英士を、手放したくない!」
あの時、彼はどんな顔で私を見送ったのだろう。振り向けばよかった。すぐに戻ってくる、なんて半端な言葉で伝えないで、ちゃんと振り向いて伝えれば良かった。伝わっているか分からないのが苦しいなんてこと、私が一番よく知っていたはずなのに。
滲む。滲む。奥の方から溢れ出す涙で視界がどんどん滲んで、歪んでいく。分かるのは、またユンの腕の力が強まったこと。再度埋められる距離。しかも、さっきよりも、ずっと強く、狭く。そして距離が縮まったことで自然と耳元にユンの呼吸を感じる。「」と呼ぶ声は甘く、甘く。
「……ぼくは、もうずっと、……を好きだって思ったときからずっと……ヨンサを傷付ける覚悟は出来てる」
その言葉を噛み砕くよりも早く、ユンの手が私の顎を捉えた。
強制的に上向かされた瞳が、ユンを捉えて、あの熱っぽい視線を否でも応でも真正面から浴びせられる。
「ぼくを追いかけたこと、後悔なんていくらでもすればいい」
熱く絡む視線。ゆったりと焦らすように縮まる距離。
もう子供じゃない。先に続く行動は分かりきっている。逃げなきゃいけないのに。逃げないと、きっと、壊れてしまうのに。それなのに。ユンの腕が、手が、離さないと言わんばかりに私の身体を捉えて動かない。
「……っユン!」
「ヨンサに言えないとこで、ぼくのこと考えればいい」
「ユン、だめだよ、……おねがい、……!」
「……ごめんね、。こんなでもが好きなんだ。でも、好きだから、」
続きは二人の吐息の合間に呑みこまれ、聞くことは適わなかった。――初めて触れた彼の唇は、熱く、冷たく。
秘密をあげる
( ―― 秘密とともに、それは閉ざされた )
2013.06.25 ... 企画『honey&salt』第一回提出作品