それは時に寄せては返す、波のように。



 既にとっぷりと夜に漬かった商店街。ぽつらぽつらと並んだ街灯。さっきまでの賑やかさは何処へやら、吹く風も無く、蝉の声だけがやけに大きい。
 もう9月も近いというのに、夜になってもまだまだ蒸し暑い日が続いていた。昼間の茹だるような熱気が薄れたとはいえ、外を歩いているだけなのに、額に汗がじんわりと滲む感覚がする。
 ただ、そのなかで、カラン、コロン、下駄の音だけ涼しげに隣で鳴っていた。
 右隣を向くと俺の肩ほどの高さに音を鳴らしていた張本人であるの頭があった。深い藍染の浴衣に躑躅色の帯。俺の視線に気づいたのか、こっちを向いたが、浴衣の柄と同じ、朝顔みたいな笑顔をパッと咲かせる。


「花火、楽しかったね」
「だなー。でも打ち上げ花火はあっという間だったな」
「しょうがないよ、商店街のお祭りだもん」
「まあ地元じゃこれが限界だよなー」
「その分、手持ち花火いっぱいやったじゃん」
「いや、まだまだだろ。今日は女子がいるからアイツらも手加減した方だぜ?」


 アイツら、と視線で指し示したのは、数メートル合間を挟んで一固まりなって歩く、同級生たちの集団。俺がクラスの中でも特に仲良くしてる三人と、俺の隣で「本当に?」と笑うと仲が良いらしい女子三人。
 俺たちは全員同じクラスで、すごく仲が良い!って訳じゃないけど、何となく話の流れで"今度一緒に遊びに行っちゃう?"みたいな流れになることもある。
 今日もそんな感じで一緒に花火大会に来た訳なんだけど。


「……ごめん、なんかはぐれちゃいそうだね。もうちょっと速く歩く?」


 今日は違う。アイツらに明確な目的があるのを俺は知っている。


「ん? んー……まあ、いーんじゃね?」


 ――多分、アイツらは、俺との事をくっつけようとしている。
 切っ掛けは作ってやると言わんばかりに、明らかに普段よりも速足で歩くアイツ等。多分女子達も共犯だ。時折、チラチラとこっちを見ながら、楽しげに男子達に着いて行く。
 おかげで彼らの思惑通りに距離はずんずんと開いていく。


「え、でも……」


 多分、この計画を知らないのはだけだ。そうじゃなきゃ心配気に俺とアイツ等とを交互に見比べたりしない。


「だーいじょぶだって! そんながっつり離れてる訳じゃねーんだし」


 その距離、横断歩道一つ分。信号が変われば距離が開きかねないけれど、それでも姿が見えなくなる程ではない。声は遠くなったけれど背中は捉える事が出来る。走ればすぐに追いつける距離だ。
 商店街を抜ると少し大きい通りに出る。更に行くと国道と交わる為か、この県道は案外車通りが多い。一旦信号に捕まると次まで時間が空く。それを利用して逸れてしまおうというのが彼らの計画らしいが、生憎と信号は青続きだ。だから俺は暢気に二度目の「大丈夫だよ」を繰り返した。


「それに浴衣で急ぐとコケるぜ?」
「転ばないよー」
「いや、俺の類まれなる勘によると、は信号の間に一回はコケる」
「なにその怖い予想! そんなにほいほい転ばないよ!」
「どうだろーなー? この間の時も、――……って、巾着振り回すなって!」
「もう!」


 ふい、と彼女の顔が逸れ、その足が速まっていく。
 すぐ隣にいたはずなのに、その距離は、一歩、二歩、どんどんと開いていく。
 よく下駄でそんなに速足で歩けるもんだ。カラコロ。カラコロ。涼やかな音色が間隔を狭めて、そうして―― ガッ 、鈍い音色が響いたと思ったら、ぐらり、と彼女の身体が傾いたのだ。


「……っ、  だから危ねーつったじゃん」


 危ない、と叫ぶよりも先に身体は勝手に動いていて、傾いた彼女の腕を掴んでいた。
 でもそんな事をしなくても彼女は一歩前に足を出していたから、もしかしたら掴まなかったとしても何とか踏ん張れたのかもしれない。でも。俺は。


「分かったら観念してゆっくり歩いとくこと」


 黙って見てる事なんて出来なかったから。
 彼女の背中をポンと押したなら、大きく前へ一歩、踏み出す。最初と同じく、隣り合う肩と肩。浴衣仕様なのか、珍しいのお団子頭が傾いて「ごめん」と気まずそうにわらった。


「若菜の予感的中だったね、……うん、大人しく若菜の隣にいよーかな」


 ―― ああ、どうしよう。


「おー、そうしとけ」
「何か偉そうじゃない?」
「苦しゅうない近う寄れー、……なんつって?」
「ははっ、ばかだ」


 に、触れたくて、堪らないとか。


「浴衣のヤツがいると大抵そうキャラ設定にならねえ? お代官様ーみたいな」
「あれでしょ、帯をくるくるーってするやつね」
「そうそう」


 触れたい。握りしめたい。指を思い切り絡めたい。触れたい。
 下らない冗談で屈託無く笑ってみせるけど、本当は、結構いっぱいいっぱいで。


「私のはやんないでよ? 着付け出来ないんだから」


 「なーんて」と笑って見せる彼女に、馬鹿みたいに踊らされてるんだ。
 そんな俺なんてお構いなしには涼しげに下駄をカラコロと鳴らして歩く。


「あ、若菜、信号変わったよ。あそこの信号短いんだから急いで急いで!」


 「ほら!」と彼女は手招きした後に、浴衣なのに何故か素早い動きで青信号へと向かって走る。揺れる袖を掴みたい衝動に駆られるが、代わりに暑い空気をぐっと握りしめて、前へと足を踏み出した。
 ―― いつも学校へ行く時は赤信号ばっかりで足止めするくせに、どうして、こういう時に限って青信号ばかりが続くのか。今、ここで赤信号になったら、数メートル前を歩くアイツらの術中にまんまと嵌ってやるのに、俺を嘲笑うかのように真っ直ぐな県道には青信号が連なっていた。
 いくら俺がやる気無い緩やか走りをしようが、先導する彼女が浴衣で下駄だろうが、信号が点滅するまでにはゆうに間に合ってしまって。ああ、これじゃどうやってもはぐれそうにない。
 どうしたら。どうしたら。 その手に、その指に、





 驚いたように彼女は振り向いた。けど、多分、俺の方がもっと驚いた顔をしているだろう。何せ無意識だったのだ。当然ながら「なに?」と彼女は問うが、答えなんて用意出来ている筈も無い。
 さっきまでずっと鳴り響いていた下駄の音は鳴り止んで、今度は痛いくらいの沈黙がやってくる。
 夏の夜風が二人の間を通り抜ける。決して涼しくもない生温かい風。チカチカと点滅する信号機。何処か遠くを行く車の音。


「すきだ」
「  っえ? 」
「    っ、    」


 の瞳がまるく見開かれると同時に、一瞬世界が止まってしまったような気がした。







「なーんてな」


 世界が再び動き出した時、臆病な唇は震えを隠しながらそんな言葉を紡いだ。


「これ以上止まってるとはぐれそうだな。行こうぜ、ほら、」


 大股で歩いたなら、一気に彼女を追い越して、ついさっき彼女がしたみたいに手招きをする。
 きっと彼女の頬が赤いのは街灯の所為だろうって。自分の頬が暑いのも夏の所為だろうって。言い聞かせながら。言い訳しながら。彼女を気にする余裕も無く、全速力で前の集団の所まで走っていく。
 集団の中に溶け込むや否や「女の子を置いて行くなんてひどい」と女子達に責められたが、最早ああするしか無かったのだ。あの空気をもう一瞬、なんて、無理だった。「ワリーワリー」と形ばかり謝って、後はお互いに集団の端っこで賑やかさに溶けてしまおうか。くだらない話で笑って。冗談を言って。突っ込んで。また笑って。
 そんな事をしている間にあっという間に別れの時がやってくるのだ。高校へと続く交差点を起点に、「またねー」「おやすみ」とか「気を付けて帰れよ」「お前もな!」などと口にしながら、各々の家の方向へ散り散りに歩いていく。
 そうすれば賑やかな時は容易く終わりを告げ、真っ暗闇に独りきり。あとはこのまま家へと歩いたなら、取り敢えず軽くシャワーを浴びて、布団へとダイブしてしまえば、今夜は終了のお知らせ。寝て起きたら、へ告白したことなんてまるで無かったみたいに、また日常が戻って、――――














「…………っ、じゃねーだろうが!」


 何時の間に辿り着いたんだろう。家の玄関を目の前に俺の背中はくるりと真反対へと翻った。
 衝動のままに駆け出して。走って。走って。思い切り走った。
 今更だけど、物凄く、今更すぎるけれど、何十分も経った今になって、「なーんてな」で誤魔化したあの人を相当に後悔した。あのまま勢いで伝えてしまえばよかった。そうして触れてしまえばよかったんだ。こんな風に爪の痕が残るくらい拳を握りしめるくらいなら。
 ゲームみたいにリセットボタンを押して、セーブした所からもう一回、――なんて事は出来ないんだ。自分でどうにかするしかない。手放したなら、自分でどうにかしないと、駄目なんだ。
 気だるい夏の夜を切り裂くように走っていく。もしも今の関係をも切り裂くような結果となったとしても。悲しみはするだろうが、後悔はしたくないから。今度伝えるなら、なーんて、なんて冗談みたいなオマケは無しで。
 ――ああ、それにしても今頃になってどうして。あの時変わってくれたら良かったのに。

 そうして少年は赤く光る夜を飛び越えて行く。







逃れられない衝動


( ―― 一度逃げたようでも、また容易く囚われる )







2013.09.22 ... 企画『honey&salt』第二回提出作品