はらり。捲った本のページの、隙間から、微かに揺れた空気から、潮の香りがする。潮騒が耳に心地良い。
手中にある物語もちょうど海辺のシーンに突入したところだ。男と女が見つめ合い、その場に立ち尽くす。それを男が、女の腕を引き、力強く抱きしめる。――そして、


 「よう、」
 「あれ、黒川。いたの?」
 「ああ。…悪い、邪魔したか?」
 「いーよ、別に。何となく展開読めたし」


今まで物語の中にあった意識がふつりと途絶え。声に誘われるがまま、空を見上げるように背中を椅子ごと反らせば、青い中に浮かぶ、黒川独特の、浅黒い肌。目許が和らぐと同時に、拝むように両手を合わせ、ぱたり、本を閉じる。黒川はとてもさり気なく隣に移動し、そのまま腰を下ろした。途端、ふわり、つよい潮の香りの気配がした。今まで泳いでいたのかもしれない。横目で盗み見ると、案の定、髪が濡れていた。ゆっくりと、黒川の、骨ばった手がそれを掻きあげる。ぽたり、滴が落ちる。見慣れたはずの仕草と横顔が何だか知らない人のもののように見えるのはいつもと場所が違うからだろうか。海辺の木造のコテージ。誰もいないベランダ。ふたつ並んだ、如何にも観光向けといった、プラスチック製の白い椅子。沈む夕陽。眩しい、と隣で片方の目を細める黒川。―たぶん、場所が、ちがうからだ。
いつも黒川を見るのは、何てことない、教室のいう名の同じ箱の中。時折、偶然交わった視線を合図に、退屈な授業からエスケープをするような。所詮、その程度の仲だ。今はたまたま、部活の夏合宿で、泊まる場所がサッカー部と一緒になっただけ。隣にいるのだってただ単に休憩に来ただけだろう。私たちの間にそれ以外の理由は存在しないのだから。


 「今日は何読んでんだ?」
 「高校生の男女四人組が旅行に出る、ミステリーサスペンス物」
 「へえ」
 「…でも、これハズレだった。ミステリー要素はあるんだけどさあ、ほぼ恋愛物なんだよ?詐欺じゃない?」


苦々しく手中に収まっている文庫本に視線を落とす。まったく、本当に、期待外れな作品だった。新感覚ミステリー、ラストに怒涛の展開が、と惹かれる煽り文が連なっていたのに。ミステリーの内容は新感覚どころかベタな展開そのもので、更に言えば、怒涛の展開はミステリー関連ではなく、男女4人の恋愛模様に対する怒涛の展開だった。まったく、なんて、期待外れな。


 「お前、恋愛物読まねえしな」
 「そう。読まないし書かない。そもそもさー、恋愛物ならともかく、それ以外のジャンルに恋愛を絡める意味が判らん」
 「まあ、それが鉄板って感じもするけどな。むしろ恋愛含んでない方が珍しくねえ?」
 「そうなんだよねー。…どうせ、チョコレート、口にぶっこんで、バンジージャンプでもさせりゃ惚れさせられんのに」
 「…何だよ、その変な理屈」
 「昨日見た本に書いてあった。タイトルは忘れた」
 「……身も蓋もねえな」
 「だってそう書いてあったんだもん。あーあ、この本、結構期待してたんだけどなあ」


残念デシタ。浅黒い肌にぽっかりと浮かぶ彼の口はそう象っていたけれど、その上にある、目元とか、眉の形とか、つまりは表情とかその他諸々含め、黒川からは微塵もそんなことなど思っていないようにしか見えなくて。何だかとても悔しくなって軽く背中をはたいてやった。


 「そっちはもしかしなくても泳いでた?」
 「あー、練習終わってからな。2時間くらい?」
 「やっぱどこも一緒だね。ウチの方もさっき泳ぎに行ったみたい」
 「つーか、合宿に来てるっつーのに、全然そんな感じしねえよな」
 「…何、今更。この辺の合宿所が飛葉中の人だらけなんて毎年のことじゃん」
 「ま、今年はお前んトコの部と一緒で助かったわ」
 「去年はどことだったの?」
 「柔道部。…正直、見てて暑苦しかった」


柔道部とサッカー部という比較的我体の良い男子が何人もこのコテージの中でひしめき合う。そんな図が頭にぽんと浮かんできて、若干苦笑を漏らす黒川を他所に、思わず、笑ってしまった。一瞬、チカリ、と光が増して、思わず視界も引込む。その瞬間、黒川の姿は光に隠れてしまったけれど、プラスチックの椅子がギィと耳障りな音を立てたのが届いて、黒川が立ち上がる気配だけは感じ取れた。ペンションが海のすぐ側なせいか、いつもより空が広くて、光は存分に自己主張をしていた。まぶしい。


 「


瞼を押し上げて、一番最初に目に留まったのは、背中。真正面から光を浴びている。黒いタンクトップは影のように黒川に貼り付いていた。


 「ちょっと、出ねえ?アイツらもそろそろ帰ってくる頃だろ」


―相変わらず、察しの良い男だ。頬が緩み、口角が持ち上がるのが自分でも分かった。返事の代わりに立ち上がり、それから、どちらからともなく歩き出した。




ペンションから出てゆるい下り坂を降りると海水浴場がある。案の定、とも言うべきか、カラフルな水着がちょうど小指ほどの大きさで動いているのが見えた。それなのに彼らの声だけは透き通るように私の耳まで届く。あの少し大きいのは畑兄弟だな。ああ、向こうに見えるのは美知だ。隣にいるのは彼氏かな。本当はちょっと嫌味なやつで気に食わないんだけど、こうして、ちょっと遠くから見るとバランスが良く、似合いのカップルに見える。


 「あー…そういや聞いたか?」
 「なに?」
 「明日、お前んトコと合同で遊園地に行くってよ」
 「え、練習は?」
 「休み」
 「ここまで来ると最早プチ旅行だね、こりゃ…」


黒川の隣に並んで砂浜を歩く。いや、実際には、半歩遅れて、少しだけ彼にリードを任せるように、歩いていたから、正確には並んではいないのかもしれない。私が美知を見たように、美知が私と黒川の姿を見たら、同じように思うのだろうか。
今までに記憶では計れないほどの数の本を読んだ。そこに度々登場するのは、幸せと、憎しみと、希望と、絶望と、愛に満ちた、恋をしている男女だった。誰かのために、時には命まで投げ出してしまうほど、恋焦がれた姿。――正直な話、私にはそれが理解できなかった。自分の世界が誰かで染まってしまうような、そんな感覚が。私の世界は、片隅に友達や家族の姿があるけれど、あくまでも私の世界以外の何物でもなかった。段々と遠ざかっていく美知の後姿。今、彼女の世界にはおそらく、あの嫌味な笑顔のあいつが中心に立っているのだろう。


 「そんなもんだろ。…一緒に回るか?俺らと」
 「えー、やだよ。椎名先輩とかに良い顔されないもん」
 「ハッキリ言うよな、お前も」
 「それにさ、あの人、絶対ジェットコースター乗せようとするでしょ」
 「…いくら翼でも高所恐怖症のヤツを乗せたりはしないだろ」 
 「そうだといいけどね…」
 「あー…お前、どんくらいの高さまでならイケんの?例えば、そうだな…あそこの岩場ぐらいの高さとか」
 「あれぐらいなら、うん、多分平気。足場がしっかりしてれば何とかね。屋上も下見なければ平気だし」
 「へえ、」
 「ジェットコースターはさ、あれだよ、高さももちろんだけど、あの落ちる直前の、ふわっ、て感触が駄目」
 「ああ、あれな。…平気ならあの岩場行ってみねえ?多分今なら良いもん見れると思うぜ」
 「駄目。……ウソ、いいよ、行こう」


集団から遠く離れた場所、変わらずに二人、他愛の無い話で口許を綻ばせる。潮騒の合間に笑い声が聞こえるような。サンダルから指の隙間へと滑り込む、砂のざらついた違和感も、気紛れにそよぐ潮の香りに吹き飛ばされる。夏の空気は夕方になってもまだ昼間の名残を残していて、肌が僅かに湿り気を帯びていたけれど、時折ぶつかる肘とか、冗談半分に触れた背中とか、そんな熱はものともしない。――これで十分じゃないか。誰かに世界を譲り渡さなくても、ただ、こんな時間だけで。隣に並ばなくったって、背中合わせでも、彼女たちのように、手は、繋いでいけるじゃないか。


 「苔で滑るから掴まっとけ」


――見透かされた。伸ばされた手に一瞬にして身体と心が同時にギクリと固まる。ごつごつした岩の階段のような、一段高くなった場所から私を見下ろす黒川。…私の、考えすぎ、なんだろうか。確かに足元には苔が綿雲のように張り付いていて。目の前にある、手首から指先に掛けて緩いカーブを描くそれは、私を受け入れようとしていて。おずおずと差し出した指先が、黒川のそれに触れた瞬間、まるで静電気が走ったように、黒川の温もりが脳まで一気に駆け巡った。くすぐったい。こそばゆい。背中がむずむずする。時折、「そこ、段差あるから気をつけろよ」とか「大丈夫か?」とか声を掛けられながら、黒川に引かれるがままに岩場の天辺まで上った―のだけれど、正直、思考回路は飽和寸前で、返事をしたかどうかすら怪しい。手を、ただ、身体の5%にも満たない部分が触れ合っていることが、こんなにも、恥ずかしいものだなんて。
岩場の天辺に着いても、黒川の指はしっかりと、隙間を縫うように私を絡めとり、逃がして、くれない。どうしても黒川の顔が見れない。何故と聞かれても困るけれど、胸の奥がむずむずして、とにかく、見れない。視線を下にずらすとごつごつと歪な岩の隙間から海が見える。水面に季節外れの落ち葉が漂っている。高所にいるという恐怖心がむくむくと蘇ってきて、慌てて、視線を持ち上げた――予想していなかったわけではないけれど、黒川が、こっちを、見ていた。


 「……黒川ってさー、人前でこういうことするの平気な人だっけ?」
 「あー…いや、どっちっかっつーと苦手」
 「じゃあ、なんで、手、」
 「…海は人を開放的な気分にさせるんだと」
 「何それ、」
 「バスん中で直樹がやけに主張してた」


必死に平静の仮面を被るも、他愛の無い世間話をするはずが、無理に会話を引き出そうとしたせいか、脳から唇に届く前にまるで伝言ゲームのようにいつの間にか私の本音と掏りかわっていた。けれど、黒川は相変わらずの表情で、何て事無く受け答える。相変わらず指は彼に絡め取られていて。この状況は、一体、何だ。くすぐったい。こそばゆい。ざわざわするのは潮騒が耳に届くから?黒川の熱にあてられてどんどんと熱を帯びていくのも、彼の体温が熱いから?分からない。潮騒が、波が幾度も落ち葉を掻き乱す。ざわざわする。まるでスローモーションのように、黒川の唇が、ゆっくりと、弧を描く。


 「…少しはスリルがあった方が面白いだろ?」


今まで僅かにすれ違っていた互いの視線が真正面からカチリとぶつかった。多分、この時、それぞれ互いに言いたいことがあったのだと思う。けれど、その言葉はゆらゆらと、二人の間を漂うだけだった。ちょうど真下に見える、水面に漂う葉のように。行き場も無く、だからといって沈むことも適わずに。ゆらゆらと。


 「…黒川、?」
 「ん?」
 「どうしたの?…なんか、さ、…らしくないよ」


夕暮れが近い。薄れていく昼の中で黒川が着ている黒いタンクトップだけが影のように張り付き、段々と濃度を増していく。視線が、カチリ、と。言葉はゆらゆらと。身体が動かない。動けない。黒川の視線が、痛くて、苦しくて、溺れそうだ。私を取り囲む昼の色が段々と薄れていく。立ち尽くす私、淡い、淡い、グラデーションの中に溶けてしまいそう。


 「俺を、」


腕に、黒川の手が伸びてきて、逃げる隙も無く私を容易く捕らえる。そのまま、引力のままに、私の身体は黒川の方へ吸い寄せられた。


 「こんな風にしたのはお前だろ」


刹那、ぐらり、と世界は傾いて――傾いた身体は、外へ、外へ、飛び出るように、岩場の外へ。海へ。落ちていく。落ちていく。溢れんばかりの青が眼前を染め上げる前、私のふたつの瞳が捉えたのは、黒川の口許にうっすらと浮かぶ三日月。潮っぽさに混じって仄かに鼻をくすぐる、チョコレートよりも融けそうに甘い香り。ふわり、上も下も分からなくなるような、私の苦手な無重力感覚。背中に回された手が、くすぐったくて。こそばゆくて。ふわり。くるくる。落ちていく。なんだか、こんなの、あれみたいじゃないか。ふわり。くるくる。落ちていく。落ちていく。落ちていく。ああ、こんな、まるで、 脚本のないメロドラマ みたいな、