白昼夢の幻想。それは儚き幻のまぼろし。







朝のHR前の時間。本当なら1時間目の国語の予習をしなきゃいけないのに。今日は私の出席番号と同じ日付だから先生に指される確率高いのに。机の上には真っ白いノート。その横にシャープペンが使われることなく虚しく転がっていた。それを手に取っては一度くるりと指の上で回して、そしてまたノートの横におざなりに放り投げる。学校へ来てから20分以上経つというのにずっとそれの繰り返し。



 「おはよー、

 「…あ、志穂ちゃん。おはよ」

 「何やあんた元気ないんやないの?何かあったん?」

 「う、ううん…!何にもないよ、大丈夫」



うそつき。本当は何にもないわけない。さっきから思考回路はある一つのことに掛かりきりだというのに。思い出すのも、そこに思い描く情景も、昨日あった短いただ10分間の出来事だけ、だ。放課後の。部活の後の教室の。出て行った先。三階の廊下。走ってた。木々の間から漏れる夕陽。まるで映画のようなワンシーン。
志穂ちゃんが自分の席へと行ったのを確認すると、溜息を吐いて机に突っ伏して寝た振りをする。数学はもういいや。当てられてもいい。後でたんまりと仕置きという名のパシリをされるだけだ。本当は大して眠くないけど瞼を閉じる。まだ朝早い時間なのに、私の瞼の裏はやっぱりあの放課後の10分間を映し出していた。
昨日、君は何と言ったか。昨日まで単なるクラスメートだと思っていた彼は何と言ったのか。私を目の前に彼は何と、言ったのだろうか。そしてその瞬間にぐらり、とまるで一瞬にして世界が360度回転したかのような錯覚。錯覚。そうか、ぜんぶ錯覚だったのかもしれない。いつもと変わらない笑顔の言葉も。廊下を走り去るあの背中も。むしろ昨日という日ごと錯覚だったのかもしれない。有りもしないことを夢見たただの私の、儚い、



 「おっはよーさん!」

 「はよーっす、吉田」

 「お、ノリック!おはようさん。なあ、昨日のアレ見た?」

 「あー見たで見たで。あれ、むっちゃおもろくなかった?」



放課後の情景に現実の音が被さる。だけどそこに響く声は同一人物から発せられたもの。吉田。ノリック。色んな方法でみんなが彼の名を呼ぶ。そしてその度に聞こえる、からからと楽しげな笑い声。腕と髪の毛の隙間からこっそりと覗き見る。どくん。ほんの少し崩れた目元。昨日と同じ、…ああ本当にあの人が言ったのだろうか。昨日のあの台詞を、手も届かない向こう側で笑う彼が、



 「          」



ぐらり。また世界が揺れる。回る。それに合わせて私の心臓もぐるりと目まぐるしく一回転をして元の位置におさまった。ああ錯覚。どうしようもないくらい現実味の溢れる夢を見ただけだ。そうだよ。そうに違いない。だからきっと、さっきから鬱陶しいくらいに伸びた前髪越しにちくりちくりと刺さる視線も、気のせいだよ。ぐ、と更に深く自分の腕の中に顔を沈め込む。ハリネズミのように160cmの身体を丸めて自己防衛線を張った。吉田くんはいつも通り楽しそうに手の届かない向こうで笑っていた。
私にとって吉田くんという人は”中学三年間同じクラスの人”というくらいの認識だ。そしてそれと共に”自分には縁の無い人気者”でもあり”よく分からない人”でもある。一年の夏の終わり、蝉の鳴き声が聞こえなくなった頃。初めて同じ班になって、掃除の時間、他のみんなが何かかんやで誰もいなくなって、私が黒板消しを片手に筆圧高いことで有名な木下先生の字と格闘していた時、



 「きみ、むっちゃ綺麗な背中しとんにゃなー」



何の脈絡も無く彼はそう言った。思わず振り返った先で、160cmの私を見上げて156cmの吉田くんが箒を片手におもちゃを見つけた子のように、にこにこと笑顔を浮かべていた。それからよく分からないうちに彼に気に入られて、同じクラスの彼を無視するわけにもいかず、(否、というよりも自分も人気者の彼と話してみたかったという理由もあるけれど、)こちらの頬もゆるめてしまうような、へにゃり、と目元を崩した笑顔で話しかけてくるから、冬になる頃には友達と呼べるほどの位置までのし上がっていた。――だけど、それは本当に同じ班の間だけだった。席が離れてからの時間、それに反比例するように会話する頻度も減っていった。最初は、なんで、なんで、と日を追うごとに疑問符が増えていって。会話の途中で他の人のところへ行った日には何かしたんじゃないかと不安に駆られる始末。だけどそれが繰り返される度、私の心はぼろぼろの布切れのように擦り切れてしまって、その反対側でああそういう人なのかと冷静に判断してしまった。今ではもう挨拶程度の言葉しか交わさない、それ以上は交わせなかった。だから二年の時に”吉田は同じクラスのが好きだ”って噂が流れた時も、素知らぬ振りをして右から左に流していたというのに。



 「ノリー、お前それはねえだろ」

 「え、ほんまに?これってあかんの?」



からからと笑う。遠い、手の届かない、向こうがわ(……本当に”よく分からない人”だ)。
結局一行も数式を解かないまま先生が来て1時間目が始まり、予想通りとも言うべきか、数学の時間に指名を受けてまんまと放課後の仕置きを命ぜられた。そのまま何事もなかったかのように一日が過ぎていった。きっと昨日のことは夢だったんだ。錯覚だったんだろう。時折刺さる視線もきっと自意識過剰に過ぎない。



 「ー、これ教室に持ってけ。そんで今日は終わりにしてやる」

 「はー…やっと最後ですか」

 「予習してこねえお前が悪い。オラ、さっさと行っちまえ。勤務時間が延びる」

 「…はーい、失礼しましたー」



両手に明日配る予定だという進路指導教本なるものを抱えて、職員室の扉を足で閉めたい衝動を無理矢理押し込めて何とか肘でもって扉を閉める。クラスの人数分、約40冊弱。いくら薄っぺらい紙とはいえ、塵も積もれば山となるというか、ここまで束になられると相当の重みを伴っていてずしんと下へ下へと私を引きこんでいく。落ちないように。落ちないように。ぐらつく重心を何とか保ちながら、何とか教室まで運びこむと教卓の上にそれをどさりと置く。それと同時にガタリと扉が動く音。振り返ってその人影を視界に捉えた瞬間、ごくり、とあたかも漫画のように息を呑み込んでしまった。それと同時に蘇る昨日の残像。昨日と同じ色で夕陽が差し込む。へにゃり、と緩んだ。昨日よりも鮮やかな。ちゃん。明るく、静かに、私の名前を紡いだ。



 「なあ、それ何なん?」

 「…進路の本。明日使うんだって」

 「うわ、いややわー。僕、受験したない」

 「それ聞いたら先生怒るよ。…あ、えと、それじゃ吉田くん、またね」



ダッシュで机の横に掛けっぱなしの鞄を潰れそうなくらいぎゅうと抱え込んで入り口の方へと駆け寄る。席からすぐ側の、一番近い入り口には吉田くんがいる。だけど、わざわざ遠回りするのもおかしな話だ。だから彼の横をすり抜けて廊下へ出ようと思っていた。そうしようと思っていた。なのに、私が右へ行こうとすれば吉田くんも右へ身体を傾ける。左へ行こうとしても同じこと。まるで鏡のように私の行く手を阻んで逃がしてくれない。どうして。どうして。ぐらり。ぐらぐら。また心臓が目まぐるしく一回転をする。



 「な、何…?」

 「んー…だって、僕、ちゃんと話したいし」

 「そ、んな今更、……それに昨日のことなら忘れたし」

 「……昨日?昨日何かあったっけ?」

 「…っ、もういい、わたし帰る…!」



へにゃり、と崩した表情に、何かがごおっともの凄い音で吹き抜けた。もういい。帰る。帰るんだ。帰ってお布団に入ろう。やっぱりあれは夢だったんだ。錯覚だったんだ。ずんずんと吉田くんとの距離を縮めていく。5メートル。4メートル。3メートル。一歩。一歩。残り2メートル。だけど吉田くんは一歩も動かない。なんで。どうして。あと1メートル。ぐらぐら。ぐらぐら。世界がまわる。心臓がまわる。夢ならはやく終わらせたいのに。はやくお布団にはいって、このぐらぐらと揺れる世界をリセットさせてよ。”よく分からない人”で終わらせてしまえればいい。あともう数ヶ月で”中学三年間同じクラスの人”で終わるところだったのに。こんな睫毛の先にかかるほどの距離じゃない、”手の届かない人”で終わってしまえれば。



 「吉田くん、…ねえ、」

 「嘘。ちゃんと覚えとるよ、好きやって言ったことやろ」

 「……帰るから其処どいて」

 「僕がちぃちゃいからってなめたらあかんよ?昨日は逃がしたったけど今日は逃がしたらへん」



――僕はいつでも君を捕まえられんねん。
瞼ひとつ分上。手を伸ばさなくても爪先一つで届きそうな距離。にこにこ笑顔の吉田くんはどこにもいなかった。この三年間見てきたものとも一年の掃除の時のものとも違う。あの頃から1cmも1mmも変わらない私とは違う、あの頃よりも高い、いつの間にか追い越してしまった身長で、



 「好きや。僕はちゃんが好きや」

 「よし、だく、ん…」

 「君が信じるまでなんぼでも言ったる」



ガタン、と静かな教室で扉が異質なほどに音を立てた。本当なら扉があるはずの空間に吉田くんが立ちふさがる。いつも見ている扉よりも明らかに塞いでいる面積は少ないはずなのに。閉まってくるはずもない扉を押さえつける、吉田くんの右腕の下には私が通れるだけのスペースがあるというのに。なのに、息を飲むほどの閉塞感。後ろから教室の窓が迫ってくるような気さえする。



 「ほんま、どうしよもないくらい好きやねん。…なあ、僕、どないしたらええ?」

 「……わた、し、…」




きらきらのお様に耐えられない

( だめ、浴びせかかる星の海におちてしまいそう )