愛は恋よりも揺るぎないものだなんて、一体誰が決めたんだろう。







 昔から望むものは何でも手に入ったような気がする。
 家庭は決して裕福というわけではなかったけれど、両親はとても優しくて俺が望む物を出来る限りで差し出してくれた。時には両親の代わりに三つ上の兄が自分の持っていた物を俺へと譲ってくれていた。その後両親に怒られてしまうくらい、兄は俺に甘かった。
 運動神経は抜群に良かった。何のスポーツをやっても特別下手だった記憶がない。何でも出来たけれど、サッカーが好きだったから、サッカーを選んだ。サッカーを愛していたし、サッカーの神様に愛されていたんだと思う。ユースに入るまでそう時間は掛らなかった。
 代わりに勉強は嫌いだった。成績も良くなかった。でも選抜の練習が大変だろうとか、そっちに専念した方がいいとか、周囲があれこれ助けてくれたから、成績が悪くてとやかく言われることはなかった。


 欲しいものを欲しいと声高に主張すれば、何でも手に入るのだと思った。
 口にすれば願いは叶う。世界はとてもシンプルなように思えたし、実際にそうだった。そう信じて止まなかった俺の頭はこの世界以上にとても単純に出来ていた。



 ******



 夏の日差しは遠慮というものを知らない。八月入ってからは特に、だ。
 先月末に梅雨開け宣言をしたその翌日からきっちりと最高気温を上げ続けている。外を歩いているだけで額から流れ落ちてくる汗を拭いながら、もうちょっと容赦をしてくれてもいいんじゃないかと切に思った。
 短いけれど長かった駅から家までへの道のりをようやく終え、インターホンも鳴らさずに扉を開く。エアコン特有の季節にそぐわない冷気が身体を包みこむ。


「うはー、ただいま天国! おかえり、俺!」


 勢い余って数日分の荷物が詰まった俵型のスポーツバックを玄関に放り投げる。
 ドサッ、と落下音がするのと、リビングの扉が開くのはほとんど同時だった。


「誠二くん、おかえりなさい! 待ってたわよ」
「……ただいま、さん」


 真っ赤なTシャツとジーンズに黒いエプロンを身に付けた彼女はにこやかな笑みで俺を出迎えてくれた。


「親父とお袋は?」
「さっき出掛けたみたい」
「兄貴も?」
「んー……多分そうじゃないかな? 分かんない」
「ふーん、そっか……」


 彼女に会えるのは実家へ帰ってくる盆のこの時期のみ。実家を離れて一人暮らしをして早数年になる。その間、俺は夏空の下にいる彼女しか見たことがない。けれど俺にとって彼女は春のような人だった。


「暑かったでしょ? 麦茶冷やしてるから荷物置いてリビングにおいで」


 俺の周りにいる他の誰よりもさんの声はふんわりと俺の耳に届く。


「やったね。すぐ行く」


 だからさんの隣にいるといつだって優しい表情になってしまうんだ。それは彼女の才能であり、隣にいる限り、仕方のない事なのだと。――そう思い込もうと決意したのはいつだっただろうか。

 廊下を過ぎ、階段を上がってすぐ右手にある部屋。そこが俺の部屋だった。両親が敢えてそのままにしていたのか、それとも単に面倒だったのか、いつ来てもこの部屋は学生の頃からあまり変わり映えしない。壁に貼りっぱなしの憧れの選手のポスター達にそれぞれ「よっ、ただいま」と挨拶をして、スポーツバッグをベッド脇に放り投げる。
 本当に変わらない。カーテンも壁紙もそのままだし、本棚の位置もそのまんまだ。棚に入ったサッカー雑誌の背表紙が色褪せている。試しにベッドに横になってもちょっとサイズが小さくなっている辺り、これも変えていないんだろう。
 でも懐かしいとはあまり思わない。中高時代は寮生活だったし、代表になってからは忙しくてあまり実家には帰ってこなかった。チームの用意した部屋にいることが大半だったから、まあ、こっちも半分寮生活みたいなもんだ。
 それでもヴェルディにいた頃はまだ残りの半分は実家にいた。でも、辞めた。東京ヴェルディを辞めて浦和レッズに移籍してからは、年に一度、盆にしか帰ってこなくなった。いや、帰ってこないように、した。



******



 さんに初めて会ったのは、中三の夏だった。あの日もすごく日差しが強くて茹だるように暑い日だった。
 寮生活の頃は盆でなくても家へ帰る日が月に何度か設けられていて、あの日もその内の一日だった。夕方のくせに容赦なく照りつける太陽の日差しを抜け、一刻も早くエアコンの効いた部屋に帰るんだとひた走った。
 帰ったら即効シャワーを浴びてアイスを食う! 意気込んで玄関を開けた。
 玄関から真っすぐに伸びるフローリングの廊下。その突き当たりの扉が大きな音を立てて開く。木製の扉が半回転した後、俺を出迎えたのは、


「あっ、おかえりなさい」


 アイスを片手にリビングからひょっこり顔出したさんだった。
 彼女の胸元の武蔵森高校のバッジが夏の日差しをキラリと反射させる。ネームプレートに入った赤いラインから彼女が俺の三つ上である、高校三年生だというのはすぐに分かった。それに、


「よう、誠二! おかえり!」


 続けざまに彼女の隣から兄貴が顔を出したから。これもすぐに分かったのだ。――彼女は兄の彼女なのだと。


「ただいま。兄貴、何で彼女連れてきてんの?」
「そりゃお前に自慢する為だろー」
「ひでー!」
「悔しかったらお前も連れて来いよ。つーか見せろ」


 リビングの扉の前で兄の右手が伸びてきたかと思ったら、頭のてっぺんからぐりぐりと乱暴に撫でつけられる。「いたい」と言うと「我慢しろ」と言われた。なんてひどい兄だ。


「二人とも仲良いねえ」
「まあな。俺と誠二って趣味が似てるっつーか、気が合うんだよな」
「あーうん。俺が好きなのは兄貴も好きだよね」
「そうそう、だからお前にもを紹介したかったんだよ」
「は?」


 兄の言う事が理解出来なくて思わず疑問符を口にしてしまった。兄の隣にいたさんも同じらしくてアイスを口に含んだまま止まっている。そんな奇妙な光景の中で兄は一人だけにっかしと満面の笑みを浮かべていた。


「俺と趣味が合う誠二なら、のことも好きになるかと思って」


 兄は自信満々にそう宣言した。正直な話、何だそれ、って感じだった。意味分かんねえ、とも思った。
 でも腰に両手を当てて胸を張っている兄と、相変わらずアイスを口に含んだまま止まっているさんと、それぞれ順に目を合わせたら、何だか馬鹿みたいに可笑しくなってしまったのだ。「何その理屈」「変なの」「馬鹿、本気なんだぞ」とそれぞれ一頻り笑った後、三人で仲良くリビングでアイスを食べる事にした。

 それから実家へ帰る日は俺と兄貴とさんの三人で遊ぶようになった。二人の邪魔をしているかもしれないと思ったこともあったけれど、遠慮していると彼ら二人が俺を迎えに来て無理やり引き摺り出していく事もあって、段々と気にならなくなっていった。
 遊園地に行って三人で絶叫マシーンをめぐり歩いた。公園のアヒルボートで三人で岸から岸まで漕ぎレースをやって怒られたこともあった。一緒に食事に行けば、帰りは兄弟でさんのアパートまで送っていったこともあった。夏は三人でプールに行き、冬は三人で鍋をした。季節が幾つか巡っても俺たちは三人でいた。
 一度だけ兄に俺が居てもいいのかと聞いてみたら、「お前がいなくても俺はと会ってるし、それにお前がいた方が面白くていーじゃん」と笑い飛ばされた。確かに二人は俺がいてもいなくても順調に続いていた。
 兄とさんは弟の俺から見てもとても仲が良くて、でも甘い雰囲気というのはあまり無く、何だかもうカップルを通り越して熟年夫婦のようだった。さんは良い人だ。ちょっと天然だけど、それが周りを和ませるというか。でもお世辞にも飛びぬけて可愛いとか、そういう感じではない。どこにでもいる普通の女の人だ。
 そう一度だけ尋ねたことがあった。兄は一瞬だけ俺に似た顔をくるんと不思議そうに変えて、ははっ、と声を上げて笑った。いつか見たような、両手を腰に当て、胸を張り。


「俺が出会った中で、が一番良い女だよ」


 自信満々にそう言って、左手薬指に嵌めた新品の指輪を愛しげに見下ろした。
 そうして彼女は肩書を"兄の彼女"から"兄の妻"と変え、"俺の義姉"となったのだ。


******


 汗でベタベタする。肌の上に膜を張るように纏わりつくような感覚が嫌でリビングに下りる前に着替えることにした。
 暑いから下は麻地の短めのやつがいい。膝丈ほどの長さの紺色のハーフパンツを履く。上は何でもいいか、と適当にどこかのブランドメーカーからCMのお礼にと貰った白いTシャツを着た。
 さっきよりも少しだけラフな格好に様変わりした後、リビングへと下りて行く。扉を開けると同時に今日一番の冷気が押し寄せてきた。


「さむっ!」


 開口一番、思わず大声で主張してしまった。さっきまで暑い暑いと愚痴っていたのに、いざ肌の表面からものすごい勢いで熱を奪われると、無意識に熱を守ろうと両腕を摩っていた。
 そんな中でさんは「そうかなあ?」と首を傾げながら平然とキッチンに立っていた。「そうだよ」と俺が反論しても、さんは「うーん」と今度は反対側に首を傾げるだけだ。さっきまで何とも思わなかった半袖Tシャツ姿がやたらと寒く見える。


さんエアコンの温度下げすぎだって。寒ぃ」
「暑いの嫌いなのよー。誠二くんだって知ってるでしょ?」
「知ってるけどさあ、」


 これはちょっとあんまりだよ。そう言いかけた俺の前に中身がなみなみと注がれたマグカップが差しだされた。


「まあまあ、これでも飲んで。ね?」


 テーブルにコトリと置かれたそれは、さっきさんが言っていた麦茶ではなかった。ほこほこと白い湯気が立った、ミルクたっぷりのカフェラテ。
 ああ、そういえばさんがカフェラテ好きで、自分のボーナスで兄に内緒でエスプレッソマシーンを買ったというのは本当だったのか。ふー、と長い一息をカフェラテの表面に吹きかけ、こくりと一口。冷房の効いた部屋で温かいものを。何だか変な心地だが、冷えた肌の下でお腹の中がほっこりと温まる。うん、なかなかいいかもしれない。炬燵でアイス、の逆バージョンみたいなもんか。また一口、お腹へと流し込む。
 傾けるとマグカップの底が見える頃になると冷たい部屋にいるのに気にならないくらい身体はすっかり温まっていた。けれど残念ながら空腹は満たなかったようだ。ぐう、と腹の虫が正直に悲鳴を上げる。


「ねー、さん。俺、腹減った」
「やだ、もう減ったの? まだ二時だよ? お昼食べた?」
「ちゃんと食べたけど、二時でも減ったもんは減ったの。しょーがないじゃん」


 「えー」と渋りながらもさんは冷蔵庫を開けて中をチェックしてくれる。何だかんだ言いながら彼女も両親や兄と一緒で俺に甘い。


「あちゃー……何にもないなあ。誠ちゃんに頼めば良かったなあ」
「ああ、兄貴、どっか買い物いったんだ?」
「ん? まあ、そんなとこ」
「ふーん、じゃあ俺がなんか買ってこよっか?」
「え? いいの?」
「なんで? 別にいいよ。あ、さん、そこのエコバッグ貸して」
「いや、だって、誠二くんスーパーで目立ったりとかしたら……」
「うわ、何その今更な心配! だーいじょぶだって」


 大丈夫と言ってもおろおろと心配するさんを余所に、さんのらしき小さいハンドバッグの隣にあったエコバッグをひょいと拾い上げる。ピンク地に茶色の小花柄か。ちょっと可愛いすぎるけどまあいいか。あとは財布とスマートフォンさえ持てばいい。最低限の荷物をポケットに押し込む間、未だに「大丈夫? 一緒に行こうか?」と付いてくるさんに、「大丈夫大丈夫」と軽い返事だけ残して近所のスーパーへ向かうことにした。

 外に出るとさっきまでエアコンの効いた部屋にいたせいか、余計に暑く感じた。けれど今は格好も身軽だし、重たい荷物もない。スーパーまで歩いて五分。駅から家に比べればずっと近い。さっさと行ってしまうに限る。

 拷問のような暑さに五分間耐え続け、スーパーの自動扉をくぐった時は心底エアコンの存在に感謝した。リビングの涼しさに比べれば大分生温い冷気だけれども、屋外の暑さに比べたらここは天国だ。
 出ていく間際にさんに渋々と差しだされたお使いメモによると、買うのはトマトとレタスとキムチと豚のひき肉、それにウスターソース。メモからはメニューをさっぱり連想できないが、とりあえず言われたとおりに買い物かごに放り込む。それと冷えたスポーツドリンクを一本。帰り際のお供に選んだ。
 まさに天国から地獄へ。冷えた部屋から暑い炎天下へ出る時の、あの独特のむわりとした熱気がスーパーから出た瞬間に襲いかかる。今日はピッチにいたら熱中症で倒れるな。堪らずにペットボトルの蓋を捻った時、エンジン音を響かせながら一台のバイクが目の前でブレーキを掛け、止まった。


「あれ? 黒川じゃん、どした?」
「どうした、じゃねえよ。来いっつったのお前だろ」


 不機嫌そうな顔で「暑ぃ」と汗を拭う黒川。見慣れた地元の景色に黒川という不釣り合いな光景に一瞬きょとんとしてしまったが、そうだ、思い出した。
 ああ、そうか。そうだった。黒川が言う通り、彼を呼んだのは他でもない自分だった。
 けれどそんな約束をしたのは、本当に世間話の中の一環というか、話の流れでぽろっと言ってしまったようなものだ。まさか本当に来るとは。


「黒川ってさー」
「ん?」
「真面目そうに見えないのに真面目だよなー」


 そう言うと間髪入れずに「はぁ?」と黒川の訝しげな声が返って来た。「そう思ったから言ったのに」と言うと、「気持ち悪いこと言ってんなよ」と言い返される。
 コイツ、最近椎名に似てきたんじゃないだろうか。言葉がキツい気がする。
 そう思いながら黒川を見ると、黒川のよく焼けた小麦色の肌を汗の粒が、つ、と垂直に流れ落ちる。よくよく見ると前髪の内側がしっとりと湿って肌に張り付いていた。――うん、やっぱり前言撤回。やっぱりコイツ、椎名には似てない。椎名は俺のためにこんな風に汗塗れで会いに来るなんてことはないだろう。それこそ気持ち悪い。


「藤代。どうでもいいけどよ、そろそろ移動しねえか?」
「だな! どっか涼しいトコ入ろうぜ」
「……どうした? なんか突然テンション上がってっけど」
「そっかー? まあ、いーじゃん。つーかそこの喫茶店でいい?」
「まあ、いいけど。……つーか、押すなよ。バイク押しながらでも歩けるっつの」


 黒川がバイクを押すのに両手が塞がっているのをいいことに、俺が「まあまあ」と言って黒川の背中を押す。喫茶店は道路を渡ってすぐのはずなのに、黒川が「暑い」と「止めろって」と繰り返し言うのを笑いながらしこたま聞いた。

 店名よりもまず先に"純喫茶"と謳われているだけあって、初めて入ったその喫茶店は至極レトロな雰囲気を醸し出していた。カウンター席が四つ、二人用のテーブル席も四つ、そして四人用が一つだけとそんなに広い店ではない。
 マスターは椅子が好きなのだろうか。オフィス用の椅子。水玉模様のファブリック調の一人掛けソファ。かと思えばマッサージチェアの背中を切り落としたみたいな大きくてゴツい感じの椅子まで。揃いの椅子が無いちぐはぐな椅子の中で唯一、四人掛けの席には赤い革張りのソファが向かい合って二脚、狭いスペースの中でドンと陣取っていた。真っ赤な色に引き寄せられるように、その席へ黒川と二人で向かい合わせに腰かける。
 俺よりも少し年上くらいのマスターが「いらしゃいませ」とにこやかな笑顔と共に、グラスに入った麦茶をコトリと置いた。ここまでの道中、距離にして十メートルちょっと。短い道のりだったはずなのに、喉が渇いて渇いて、出された麦茶を一気に飲みほしてしまった。
 それに対して黒川はグラスに一口、口を付けただけだった。暑くないのだろうか。いや、あれだけ汗をかいていたのだから暑くないはずはないのに。黒川の手の中でグラスの氷がカランと回る。薄暗い店内にあるその仕草を見ていると不思議な気分になった。


「なあ、黒川」
「ん?」
「黒川、ウイスキーでも飲んでる?」
「は? 俺、バイクで来たんだけど」


 お前も見たから知ってるだろ? と言わんばかりの顔でこっちを見る。
 そうなんだけど。それは分かっているんだけど。分かってはいても彼の手の中にあるのが、麦茶ではなく、ウイスキーのようなアルコールの類にしか見えないのだ。


「そういえば最初お前ん家に寄ったんだけど、お前の義姉さん、相変わらずだな」
「あれ? 会ったんだ?」
「ああ。危なく家に引きずり込まれるところだった」


 そう言って黒川は苦く笑った。
 休日にどっか遊びにいこうよと強引に俺を引っ張っていく姿を思い出して何だか申し訳ない気持ちになった。それでも兄貴と二人揃うともっとすごいんだぜとは言えずに黒川と同じ表情を返すしかなかった。


「別に家で待っててもよかったのに」
「そうはいかねえだろ。内容が内容だし、な」
「……なんで分かんの?」
「お前が俺を呼ぶ時は大抵あの人絡みだからな」
「ん、だよ」


 ――全部、お見通しかよ。
 相変わらずよく見てる。けど、それが悔しい。それに情けない。
 会わせる顔が無くてテーブルに突っ伏す。薄暗い店内で至近距離まで迫った視界はより暗さを増した。何も見えなくなった中で、カラン、と氷の回る音が響く。


「お前も不毛だよな」


 態勢を変えぬまま「なにが?」と問うけれど、黒川の言いたいことは分かる。「片想い、長いんだろ?」と予想通りの答え。けれど、誰のことを、と言わないのが彼らしい。


「ん、まあ長いっちゃ長いかな」
「代表になった頃からだっけ? 充分長い」
「あんまそんな感じしない」


 あの人に会ってからあっという間だった。リビングに続く廊下での初対面からずっと、兄貴に引っ張られるようにさんと何度も会った。春も夏も秋も冬も。いつかも分からないくらいあっという間に恋に落ちて、でも言えないままあっという間に年月は過ぎた。
 どうせ実らないんだから止めればいいのに。とタクに言われた。
 そんなの奪っちゃえばいーじゃん。と若菜に言われた。
 お前だったら他にも良い女いるだろ。と三上先輩に言われた。
 でも俺にはどれも出来なかった。振り向かせることも諦めることも出来なかった。立ち止ったまま過ぎ去っていくしか。「だって、」と搾りかすみたいな声がテーブルに反射する。


さんが、誰よりも良い女だって」


 そう、兄貴がそう言ったのだ。彼女を誰よりも知る兄がそう言ったから。
 それだけだ。それだけのことなのに、まるで呪いのように俺の頭にはその言葉が染み付いて離れない。
 俺に望むものを与えてくれたのは兄だった。サッカーだって兄に教わったのが始まりだ。それ以来俺にとって兄は絶対的な存在だった。
 昔、俺がまだ東京ヴェルディにいた頃、兄貴とさんが試合を見にきたことがあった。東京ヴェルディ対浦和レッズ。試合には勝って、でも二人は微妙な顔で出迎えたから、どうしたのかと聞いたら「誠二は浦和のユニフォームのが似合いそうだよな」と事も無げに言った。さんも「分かる! 赤い方が似合うよね!」と大きく頷いて。薄ぼんやりと移籍を考えていた俺は二人の言葉であっさりと次の行き先を決めたのだ。それくらい俺の世界はとても単純に出来ていた。


「別に諦めなくてもいいんじゃねえの」


 今まで誰にも言われたことの無かった言葉に「え?」と思わず視線が上がる。


「奪え、ってこと?」
「違えよ。何だよ、そうしてえの?」
「……それは無い」


 さんのことは好きだけれど、兄貴から奪おうなんて、そんなことはしたくない。じゃあどうしたいんだと言われたら分からないから困ってしまう。


「お前がさ、この前電話してきた時あっただろ?」


 この前電話した時。その単語に思い当る夜があった。素直に「うん」と頷く。
 この前と言っても一ヶ月前くらい前の話だ。真夜中に黒川へ「助けて、今すぐ来て」と居酒屋に呼び出したことがあった。


「最初飲みの誘いかと思って電話出てみたら雰囲気的にそんな感じしねえし」
「え、俺そんなやばかった?」
「スゲー切羽詰まった声してたぜ。何事かと思った」
「あー、なんかごめん」
「なのに、バイクで急いで行ったら酔い潰れたあの人が居て、お前が"さんのこと運んでよ"だもんな。あん時は気ィ抜けたわ」


 黒川は思い出したのか、くく、と可笑しそうに喉を鳴らす。けど俺にとっては少しも面白くない話だ。「なんだよ」と自然と唇がアヒルのように突き出た。


「まあ、自分で運べよ、って思わなかったわけでもねえんだけど。でもお前からあの人の話聞いてたし、あの時のお前の顔真剣だったし、立場とかそういうの関係無く……藤代にとってこの人は気安く触れるような人じゃねえんだなって思ったんだよ」
「……ん、」
「それはもう何つーか、……あれだよな」
「…………」
「恋とかじゃなくて、愛情に近い」


 「気がする」と。黒川は自信が無いのかぽつりと付け足して、困ったように眉尻を下げた。
 「そこまでの気持ちなら簡単に諦めろとは俺には言えない」とも彼は言った。そうは言っても黒川は決して俺を応援する事はないだろう。応援はしないけど止めもしない。無責任なように見えて、こいつの言葉が一番正しくて優しい。恋は簡単に消えるけれど、愛はそう容易く消え去らない。結局は俺自身が納得する形で終わらせるしかないんだと。黒川は口にしないけれど、多分、そういうことなんだろうと思った。

 いつの間にかテーブルに置かれていたアイスコーヒーはすっかり氷が溶け出してしまっていた。
 黒川がストローを口にし、「飲めば?」とグラスをコースターごと俺の方に差し出す。氷が溶けて薄まっているはずのアイスコーヒーは今日に限ってとてつもなく苦い味がした。


 それから他愛のない話を少しして店を出た。黒川に「大丈夫か?」と聞かれて、俺はただ頷いた。そうして本当に話を聞くだけ聞いてバイクに跨り黒川はまた来た道を帰っていった。去り際に、次はお前が来いよ、と黒川が言ったけれど、多分、あいつのことだから呼べばまた来るんだろうなあと思う。あいつはあいつで俺に甘いヤツだ。ああ、でもあいつは誰にでもそうか。引っ切り無しに電話が掛かってきて、チームメイトや代表のやつらの元へバイクで駆け回る黒川を想像して、ちょっとだけ笑ってしまった。


 家に帰ると待ちくたびれてしまったのか、リビングのソファでさんが横になって静かに寝息を立てていた。待たせたのは悪かったけれど、にしても、こんなエアコンをガンガンに効かせたままよく寝れたもんだ。ある意味感心する。
 ソファのすぐ横に膝を付き、「さん」と彼女の名前を呼ぶ。けれど起きる気配はない。もう一度呼んでみるけれど結果は同じ。
 恐る恐る腕に触れる。掌全体から伝わる、さんのひやりとした肌の感触。――あの夜と、同じ温度。


 ――黒川にさえ言えなかった事がある。
 黒川に助けを求めたあの夜。本当は。ほんとうは。






 梅雨だというのに蒸し暑い夜。駅前にあるチェーン店にしてはちいさな店構えの居酒屋。壁に這うように伸びる木製の細長いテーブル。サッカーボールみたいに綺麗な球形の提灯が吊り下がっている。店の死角にあたる角の席。二人掛けのベンチみたいな椅子に並んで腰掛けて、前を向けば真っ黒な壁しか見えない。アルコールに浮かされた熱が漂い、満ちていて。まるでこの場所に二人きりのような錯覚に陥った。
 さんが薄明かりでも分かるくらいに色付いた顔で俺の方を見る。


「ねえ、誠ちゃん。たのしい?」


 とろんと蕩けた視線は、俺の方を見ているようで、見ていなかった。
 彼女の眸に俺は映っていない。いるのは、俺じゃなくて、"誠ちゃん"だ。紛らわしいからと俺の前では呼ばない名前で、兄貴の名前を呼ぶ。
 「たのしいよ」と俺なのに俺ではないような声が無機質にこぼれる。さんは嬉しそうにふふっと笑った。


「私もねえ、たのしいよ」


 すり替えろ。すり替えろ。俺だって誠二で、小さい頃は両親に誠ちゃんと呼ばれたこともあった。すり替えろ。ここでだけでい。彼女にとっての"誠ちゃん"になればいい。
 悪魔みたいな囁きに頭の奥がガンガンと殴られているみたいだ。俺も大分アルコールが回っているのだろうか、痛くて、苦しくて、視界が揺れる。「ねえ、」と彼女を呼ぶ声は情けなく震えていた。


「おれのこと、すき?」
「ええー、結婚したのにそういうこと言わせるの? ねえ、」
「……うん。聞きたいから、言ってよ」
「しょーがないなあ。ふふ、」


 さんの冷たい指先が、するり、と俺の首の後ろに滑り込む。
 両手で俺の首にぶら下がるみたいに引き寄せられて、こつん、と額がぶつかった。


「すきよ。誠ちゃんが、ずっと、ずっと、だーいすき」


 ――瞼をぎゅっときつく閉じるけれど、それよりもずっと深い暗闇が内側からどろりと湧き出て、飲み込まれそうだ。冷たいはずなのに、触れた場所だけ、じわり、じわり、と熱を帯びて行く。


「っ、!」


 声が出なかった。彼女の名前を呼びたかったのに、それすらもう、出てこない。
 彼女の冷たさを手繰り寄せるように今度は俺の方から彼女の身体を引き寄せて、思い切り抱きしめる。ようやく音になった彼女の名前は掠れてしまった。

 女の子なんて望まなくても大勢寄ってくる。チームメイトも良いやつばかりだ。日本代表の選抜も控えている。優しい両親がいて、甘やかしてくれる兄がいて、馬鹿みたいな友達がいて、恵まれている。俺の世界はきっと幸せに満ちている。
 彼女に好かれないくらいで、なんだ。他は充分に恵まれている。兄貴の奥さんを好きになったって、未来なんて無い。この恋は、どこにもいけない。どうにもならない。

 それでも。それでも、だ。

 身体の前半分から伝わる熱。キツいアルコールの匂い。その中に漂う微かな彼女のシャンプーの香り。汗の匂い。首筋に這わせた舌の感触。一瞬震える彼女の呼吸音。その合間、後頭部に差しこんだ指の間から彼女の髪の毛一本一本が滑り落ちていく。五感で感じる全てにどうしようもなく泣きそうになった。
 世界はこれからも続いていくのに。大事なものを見つけてしまった。ここで終わってもいいと思ってしまった。






 息を大きく吸って。吐いて。また吸って。吐きだす代わりに、未だソファの上ですやすやと眠る彼女の耳元で「さん!」と大きな声で呼んだ。ここまですれば流石に起きたようだ、一瞬彼女の身体がびくっと震えた後に緩慢な動作で起き上がる。


「え、……あれ、誠二くん……?」
「おそよう。こんな時間に寝ると夜寝れなくなるよ?」
「……ん、いま、何時?」
「んーとね、四時前くらい?」
「えっ、嘘、一時間も寝てたの?! えーもうやだあ、何もしてないよ」
「俺も黒川と買い物途中でくっちゃべってたからなー。ごめんね?」
「あ、いいのいいの。そういえばちゃんと黒川くんと会えたのね」
「ん、スーパーまで来たよ、あいつ。さんのこと相変わらずだなって」
「……んーそれは喜んでいい方かな?」
「えっ、それは駄目な方じゃない?」


 「えーひどいわね、黒川くんってば」と怒った振りのさんの拳が、黒川がいないからその代わりにと訳の分からない理由を付けて俺に振り下ろされる。簡単に拳を避けると「もう! 避けないでよ!」とまたもう一発。俺は「無理だって」と言いながら、声を上げて笑った。
 あんな夜があっても、俺は、彼女の前で笑えている。


「あ、さん。そういえばTシャツのタグ、取れそうになってたよ」
「あーまあ、長年着てるからねえ」
「新しいの買ったげよっか?」
「それは要らなーい」
「いーの?」
「いいんです! これは誠二くんがレッズに入団した時の記念Tシャツだもん。しかもサイン入り! プレミア物でしょ」
「その割には着倒しすぎじゃない? 応援の時は分かるけど普段も着てるじゃん」
「なんかねー、不思議といつも丁度良い場所に置いてあるのよね」
「うわ、絶対その辺に投げ捨ててる!」


 あの夜、彼女を一番近くて遠くに感じた夜、俺と彼女を引き離したのはこの赤いTシャツだった。俺の名前と背番号の入った浦和レッズのユニフォームを模したTシャツ。
 さんを腕の中に収めた状態で、ふと視線を落とすと、赤いTシャツが目に入ったのだ。
 赤い赤いTシャツ。試合の度にいつも応援席に居た真っ赤なTシャツ。いつも、いつも、応援してくれていた。「誠二くん、がんばれ」と大きな声で。試合の展開で熱くなりすぎて「誠二」と呼び捨てで怒られたりもした。そこに"誠ちゃん"みたいな特別な響きはなかったけれど、嬉しかったんだ。兄貴といつも二人揃って応援してくれて、単純に嬉しかった。嬉しかった。――そう思ったら、気付いたらさんの身体を離していた。そして泣きそうになった、というか、少しだけ本当に泣いてしまった。泣きながら「助けて」と黒川にメールを打った。黒川は赤い目をした俺から何も聞かずにあのまま眠ってしまったさんをバイクの後ろに乗せて家まで連れていった。


「……あー、はしゃいだらはらへった」
「そういえばせっかく買い物行ってもらったのに作れなかったわね」
「買ってきたやつ冷蔵庫に入れといたけど、何作る予定だったの?」
「タコライスだよ」
「いいね、美味そう。兄貴に夕飯に寿司買ってこなくていいよって言ってよ」
「……えっ、ちょ、なんで今日お寿司だって知ってるの? 内緒だったのに」
「だって兄貴から昨日、何食いたい? ってメール来たし」
「うわあ、台無し」


 「誠一ってばもう」と小声で怒った後、さんは「誠二くんも知らない振りしてくれればいいのに」とまた訳の分からない理由で拳を振り下ろす。そして俺はそれを避け続ける。
 あの夜以来、俺はあまりさんに触らなくなった。むしろ触れなくなった。触ってしまうと、さっきみたいにあの夜を思い出してしまうから。それでも長年染み付いたコミュニケーションは抜けなくてうっかり触ってしまうこともあるけれど、なるべく触らないように努力している。
 黒川はこれを恋ではなく愛情みたいだと言ったけど、俺は違うと思う。決して愛なんていうそんな崇高なものじゃない。違わなければならない。






 愛は恋より揺るぎない。それが本当なら俺は声高に否定しなくてはいけない。
 揺るがなければ俺の世界はいつまでも止まったままだ。






2014.08.24 ... 企画『雨季晴好』様提出作品
title by さよならディスティニーまた明日