少し寂れてしまったちいさな商店街の片隅に、古めかしい木製の看板を提げた喫茶店があった。地下へと続く階段を下りて、看板と同じくらい年季の入った扉を開ければ、店内に充満するコーヒーの香りが一斉に鼻をくすぐる。細長い形の店内にはカウンターとテーブルが数組しかない、小さな喫茶店だ。地下にあるため窓一つなく店内は仄暗い。けれど、こんなに数が必要かと思うほどガラス製のランプが幾つも天井から吊り下がっており、色ガラスから透ける灯りがどこか雰囲気を醸し出し、私はこの店がとても好きだった。
 入口の扉から一番離れた奥のテーブルに私はいた。コポコポとお湯が沸くのを聞きながら、視線を床に落とす。


「ごめんなさい」


 そう口にした唇が震える。今は冬だけれど、決して寒いわけではない。私たち以外のお客もいないのに、複数の薬缶から湧き続ける蒸気が店内を暖めていた。


「何で? 俺のこと嫌いになった?」


 視界の端に映る爪先の持ち主が、私に尋ねた。いつも耳にするものよりもずっと低いトーンに自ずと身体が縮こまる。――わたしは、今、まさに、別れ話の真っ最中だった。震えそうになる指先をぎゅっと握りしめる。


「違う、そうじゃない、そうじゃないよ、……藤代くんが悪いんじゃないの」
「じゃあ何で?」
「……ごめん」
「ごめんだけじゃ分かんない」


 彼は間髪入れずにそう言い切った。分からない、と。その通りだ。私は彼に何も話していない。昨日まではその辺のカップルと何も変わらないただの恋人同士だった。それなのに理由も告げず、唐突に、ただ「別れたい」と告げる私はどれだけひどい女なのだろうか。
 呼吸が聞こえる。肌に触れる空気は暖かいのに、触れないはずの彼の呼吸はひどく冷たく感じる。テーブルの向こうの彼は怒っているのだろか。それとも呆れているだろうか。爪先だけでは分からない。でも、肌を刺すような空気は、ピリピリと、とてもこわくて、もしかしたらどちらもなのかもしれないと薄ら思わせる。


「……誰か、他に好きなヤツでもできた?」


 曲がっていた背骨を一つずつ起こしていき、落ちかかっていた瞼をそっと持ち上げる。数分振りに見た彼の姿は、仄暗い店内で、ブラウン管の枠内でフィールドを駆け回る姿と同じくらい色鮮やかに輝いていた。なのに、その顔は、くしゃくしゃに歪んで。痛そうで。悲しそうで。泣きそうで。私を何とも言えない心地にさせる。



******



 彼のいなくなった店内では相変わらず薬缶から湯気がもうもうと立ち上っていた。耳を澄ませば、コポコポ、と音も聞こえる。数分前と何も変わらない。変わらないはずだ。ただ、目の前の席が、からっぽになった、それだけの話で。


「あーもうやだ……」


 なのに、どうして、こんな、思いに駆られるのか。テーブルに額を付けて頭を預ける。そこに数分前まであった爪先はもうどこにもない。いや、それが何だというのか。彼を振ったのは他でもない自分なのだ。彼の痕跡を探すこと自体がおかしい。それすら、もう、敵わないのだ。


 藤代くんとは中学校からの付き合いだ。
 といっても、中学から付き合っていたわけではない。私たちの通っていた武蔵森中学は、今のご時世では珍しく、共学なのに男女別の校舎だったため、藤代くんどころか男子という存在と触れあう機会が滅多になかった。ほとんど女子校同然だった生活の中で、男子と出会うとすれば、理科室や図書室などといった合同施設か、校門からそれぞれの校舎へと向かう数十メートルそこらの間か、そんなものだ。いや、それでも友達には彼氏がいた子もいたのだから、単に私が男子と出会うチャンスをことごとく選びそびれていたのかもしれない。

 そんな中でも藤代くんは私たち女子の中でスーパースターだった。
 サッカーが上手くて、顔も格好良くて、でも笑った顔が可愛くて。サッカー部には上手い人がたくさんいたけれど、藤代くんは特にきらきらに輝いていた。私の周囲の友達は彼を一目見ようと、どうにか藤代くんのクラスの時間割を手に入れて、偶然を装い合同施設に張り込んでみたり。


! い、いま、さっき藤代くんと、目合った!」
「え、こっち見てた?」
「見てたよ! 絶対、絶対、すっごい見てた! ねー、しーちゃんも見たよね?」
「見たー! 誠二くん絶対こっち見てたよねー!」


 興奮して盛り上がる友人を、あー、とか、うん、とか生返事でやり過ごし、如何に穏便に宥めていくか。只ならぬ温度差を感じながら、彼女たちを最早アイドル追っかけみたいだと何度思ったことか。そんな私を見て、友人たちは「冷めてる」とか「は男の趣味がおかしい」とか散々非難したものだけれど、その頃の私は藤代くんに魅力を感じることはなかった。サッカーをする姿を見れば、格好いいな、と思ったし。目が合えば一瞬胸が踊ったりもしたけれど、それだけだ。交わした言葉なんて、ぶつかった時に「ごめんなさい」とか何とか交わしたような気がするとか、所詮その程度だ。


 特に接点を持たないまま、中学を卒業し、高校も卒業し、二十歳を迎えて。成人式で久しぶりの懐かしい顔ぶれと一頻り再会の喜びを噛み締めた後、誰が言い出したのかはもう忘れてしまったけれど、口伝えに式が終わったら武蔵森中学で同窓会があると聞いたのだ。どうしようかと迷ったけれど、仲の良い友人が行くと言ったので、私も何となく参加することにした。てっきり男女別だと思っていた同窓会は、なぜか合同で、居酒屋チェーン店の二階を貸切にしたにも関わらず、同級生で埋め尽くされていた。「、久しぶりー!」と懐かしい声に和んだりもしたが、なぜだか「初めましてー、俺のこと知ってる?」と知らない男子にまで声を掛けられたりもした。目まぐるしく過ぎていく人波と熱気に加えてアルコールも手伝い、一時間もしない内に私の頭は色々な意味でくらくらしてしまった。
 酔いを醒ましてくると友人に一言断り、店の外に出ると冬の冷たい風が一斉に肌という肌を撫でていく。外はもうとっぷりと暗く、店の前の通りは人気が無く静かで、はあ、と吐いた息は街灯に照らされ白く浮かぶ。まるで別世界だ、と思った。いや、もしかしたら店の中が別世界なのかもしれない。あんなに人がたくさんいるけど、本当に武蔵森の生徒だけなんだろうか。もしかしたら、どさくさに紛れて誰か別の中学の人が混じっているんじゃないか。なんて、そんな馬鹿な事をぼんやりと考えていた時だった。
 ――トントン、と階段を下りてくる足音。街灯の光を遮って、背後から音もなく影が伸びてくる。


「あれ、、どうしたの? 一人?」


 かっちりとしたスーツに、首元のネクタイを少し緩めた藤代くんがそこに立っていた。中学の時の制服はブレザーだったけれど、形は似ていてもやはりスーツとなると雰囲気が違う。一瞬誰に話しかけられたのか分からなかった。私が驚いている間に、藤代くんは私のすぐ横のガードレールに腰かけ、「も座りなよ」と言うものだからつられて腰かけてしまう。
 それから、何となく、二人で他愛のない話を始めた。今、どこに住んでいるのか。何をしているのか。今日あった成人式の話。今も続くどんちゃん騒ぎの同窓会の話。友達の話。中学の思い出話。他にもいろいろだ。といっても、大半は藤代くんの質問に私が答え、逆に彼はどうなのかと私が聞き返しただけなのだが。――でも、この時に気づくべきだったのだ。なぜ、彼が、ほとんど話したこともない私の名前を知っていたのか。
 不意に会話が途切れて。私は、次はどんな質問が来るのかと、藤代くんは話上手だったから次はどんな話が聞けるのだろうと、少しだけ、ほんのちょっとだけ、期待と好奇心とを抱きながら次を待っていた。けれど訪れたのは質問ではなく視線だった。次を考えているのだろうと思っていた。思い込んでいた。でも、その視線が、今までにないもので、中学の時は目が合っても何とも感じなかったのに、この時ばかりは違った。寒空の下で、胸がやけにざわめいて、頭上で煌々と輝く看板と街灯とが、二人の吐息を白く映し出す。彼の黒い短髪がほんの少し風で揺らめいたその時だった。彼が僅かな沈黙を破ったのは。


のこと、中学の頃からずっと好きだったんだ」


 最初、何と言っているか分からなくて。幻聴か聞き間違いなんじゃないかと疑ってしまうくらい、信じられない言葉で。一瞬にしてさっきまでの酔いがどこかへ吹っ飛んでしまった。反射的に視線を伏せてしまい、暗い地面に並んだ爪先がやけに印象的だったのを覚えている。
 さっきよりもずっと長い沈黙の後、何かを言おうと顔を上げたけれど、その言葉は形になる前に消えてしまった。藤代くんの「なんてね」と悪戯っぽくこっちを見た顔が、月明かりの下でも分かってしまうくらい赤くて。理解した途端、私の方がもっとずっと深い赤に染まってしまった。



 友達からでいいから付き合ってほしい。と彼は言った。
 告白の返事を曖昧にしたまま、藤代くんは、本当に言葉通り、友達として付き合ってくれた。休みの日にはメールをくれて。たまに写真付きで、こんなことがあったよ!と今にも藤代くんの笑顔が見えてきそうな報告が来たり。誘われれば試合の応援に行って。おいしいお店があるからとご飯に行ったり。サッカーに詳しくない私に、まずは実践からと、単に公園でボールを蹴り合って終わる日もあった。
 いつからか、私を呼ぶ声も「」から「」に変わって。彼は精一杯の好意を私に向けてくれたし、私も彼といて楽しかったし、私は私なりにとてもどきどきしていた。だから、同窓会からそれほど経たない内に、私たちはちゃんと彼氏と彼女として付き合い始めた。

 付き合ってからも藤代くんは変わらずやさしくて。あたたかくて。隣にいて幸せだなあと思う時もあった。確かに私の日々は満たされていた。

 でも。だからだ。だからこそなのだ。
 彼といて幸せだったし、ちゃんと好きだとも思った。でも、私のどこかに、ある人が確かに存在していて。藤代くんをすきだと思うたびに、その人が存在を色濃くしていく。
 彼が去った後も喫茶店に立ち込め続ける湯気のようにあたかかくて。頭上で彩り鮮やかに輝くランプのように、煌めいていて。そんな彼に、どうして言えようか――――あなたのお兄さんが忘れられないんです。などと。



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