藤代くんのお兄さん――誠一さんに会ったのはもう四年も前の話だ。

 中学を卒業したのをきっかけに、私は寮住まいから実家へと戻り、県内の公立高校へ進学した。元々、両親の出身校だからと高い学費を払い私立の武蔵森へ入っただけで、中学への未練は別段無かった。高校は高校で、それほど大きくない規模の高校だったけれど、元々地元だったこともあったし、昔の顔なじみもいて気兼ねすることもなく楽しかった。
 高校は海の近くにあって、窓を開けると潮風が容赦なく吹き込んでくる。あまりに風が強い日には、グラウンドの砂埃がひどく、部活が中止になってしまうくらいだ。

 誠一さんに出会ったあの日も、強い風の日だった。
 冬真っ只中でただでさえ寒いというのに、雨と雪のちょうど真ん中くらいの霙が、風に乗って容赦なくビニール傘を叩きつけてくる。傘で防ぎきれなかった分は、スカートやら靴下やら、挙句の果てには首元に巻いたマフラーにまで水分を齎し、最早防寒なんて出来ていないも同然だ。成る丈被害を被らないようにと身体を縮めながら、早く家に帰ろうと駅のホームに着いた時、その人はそこにいた。

 閑散とした駅のホームでダークグレーのスーツを身に纏った彼はとても目立っていた。一際、背が高いということもあったけれど、それだけじゃない。この寒い中、ホームの縁のギリギリに立っていて、屋根から滴り落ちる滴でその黒髪は濡れていた。伏せた顔からは表情が読み取れなくて。ただ、彼のうなじに叩きつける滴が寒そうだ、と。自ら雨に打たれに行っているようなその姿は、もしかしたら泣いているのかもしれない、と。そう思わせた。
 もしも、それだけならば、何かあったのだろうかと心配するだけで終わっただろう。でもそうはいかなかった。白線の内側へとお下がりください、とお決まりのアナウンスと、まもなく到着する電車の気配が響き渡る中、それを掻き消すほどの突風が駅のホームを駆け抜けたのだ。そして、――彼の身体が、ふらり、と、寄りにも寄って、線路へ向かって傾いた。


「…………っ、」


 声にならない悲鳴を上げたのは、自分だったか、それとも彼だったか。ただ息を吐く音が聞こえた。だが、そんなのは問題ではなかった。傾いた身体に手を伸ばし、一歩踏み出して。ジャケットの尻尾をどうにか掴まえた。そして考えるより先に思い切り引っ張った。動きを止めた身体に、この時どれだけ安心しただろう。


「な、にを……っ!」


 安堵の溜息を吐く間もなく、相手の顔を見るより先に、唇から言葉が漏れていた。


「何をしているんですか!」


 唇が震える。どうして今頃になって。気付けば彼のジャケットを掴んだ手も震えていた。掴んだ所から放射線状に皺が伸びていて、多分、この手を離したら酷い事になっているかもしれない。もしも、この手がこうして掴む事もなく虚しく空を切っていたら、と想像すると寒気がする。いや、寒気を通り越して、沸々と怒りが腹の底から湧いてきた。


「そんなホームのギリギリの所に立ってたら危ないに決まってるじゃないですか」
「……え、や、」
「両親に危ないって教わりませんでしたか? 何の為にアナウンスしてると思ってるんですか?」
「…………うん」


 目の前の皺くちゃスーツの上から、ごめん、と小さな声が聞こえた、ような気がした。断定出来なかったのは、その時ちょうど目の前に電車がやって来て、車両の甲高いブレーキ音と、呑気に間延びしたアナウンスとが、彼の声を掻き消しそうになったからだ。
 今更、気付いたのだが、掴みかかった反動というか不可抗力の結果により、私のすぐ目の前にあるダークグレーのスーツは、とても高価な物ではないだろうか。所詮高校生風情の私にとって、スーツの価値なんてこれっぽっちも分かりはしないけれど、そのスーツは上半身こそ濡れて染みになっているが、ズボンの裾や横のラインはアイロンで折り目正しく綺麗に整っている。それに何より、目の前の人物は、とても大人に見えたからだ。それを必要とはいえ、思い切り引っ掴んで皺を付けてしまったのだから、法外なクリーニング代を請求されたらどうしようかと。怒りが引き切った今、そんな考えで先程とは違う寒気が上から下まで駆け廻った。
 けれど、私が心配するような事態は一切起きなかった。彼が一歩踏み出したことで、緩んだ指先をすり抜けるように、私の手から彼のスーツは離れていく。そして、振り向いて。


 ただ一言、ありがとう、と。


 彼が見せたのは笑顔らしい笑顔ではなく、目尻も眉尻も下げられ、どこか寂しさを伺わせる笑顔。けれど、私の目に、彼は輝いて映った。短く刈った黒髪が霙を吸ってきらきらと。耳元を強い風が拭き抜けていって、スカートが翻りそうになるとか、耳が寒くて痛いとか、そんな感情は風と一緒に吹き飛んでしまった。きっとこの寒さで自分は凍りついてしまったに違いない。あの時、あんなに機敏に動いた手足が、この瞬間、全く動かなかった。動かせなかった。音を立てて電車の扉が私と彼とを隔てるのを、ただ、見送っただけだ。

 自分が電車に乗り損ねたのを知ったのは、もうその姿が見えなくなった後だった。



******



 彼との再会は思いの外すぐにやってきた。
 次の日の夕方。その日もやはり似たような時間に学校から駅へと向かう合間に、そういえばあのスーツの人どうしたかなあ、なんて、ぼんやりと思い出していた。今日も相変わらず風は強くて、また倒れていないだろうかとちょっと心配になる。けれど、そんな私の心配も余所に、その人物は現れた。
 昨日と同じスーツだから直ぐに分かった。駅の改札横にある自販機に凭れ、周囲を見回したり、時折空を見上げたりしていたのだが、私の姿を見つけるなり、長い腕を大きく振ってきた。


「あ、いたいた!」
「えっと、昨日の、」
「うん。いやーもう、昨日はホントありがとね!」


 一瞬、昨日とは別人ではないかと疑ってしまった。
 確かに彼の身に纏っているのは見覚えのあるスーツで、しかもご丁寧に背中の皺までしっかりと残っていて、正しく昨日の彼だと物語っているのに。しかし、自分に向けられたこの表情の変化は、一体。昨日の寂しさを伺わせるような笑みは一ミリとて見当たらない。これが漫画ならば、にこにこ、と効果音が横に書いてありそうだ。それくらい人懐っこい笑みを浮かべていた。戸惑いがちな私を余所に、彼は「今、学校から帰るトコ?」と尋ねる。隠すこともせず素直に頷けば、「そっか」と彼も頷いて、今度は「高校生? 何年?」とまた新たな質問が返ってくる。


「……何でそんなこと聞くんですか?」
「だってほら、命の恩人だからさ、なんか知りたいなーと思って」
「何ですかそれ」


 意味が分からない。――そう思うのに、彼に質問されると、なぜか口から答えがするりと零れ出てしまう。どこの高校に行っているのかとか。何の部活に入っているのかとか。家まで遠いのかとか。電車でどれくらいかかるのかとか。ただの見知らぬ人だったら、きっと怪しんでいただろうけど。でも、彼は、違った。話上手な所為だろうか。いや、それだけじゃない。その理由に気付いたのは、彼の名前を聞いた時だった。
 彼は藤代誠一と名乗った。「今、Jリーグにいる藤代誠二の兄なんだけど。知ってる?」と、自分の顔を指差して。その時ようやく、ああ、藤代くんに似ているんだと。そう思った。
 私の記憶の中にある藤代くんは、黒と白のユニフォームもしくは制服のブレザーを身に纏った、中学時代の藤代くんだ。窓越しにでも笑い声が聞こえてしまうくらい、どこか通る声の持ち主で。声がする方へ視線を移すと、笠井くんや他の男子と楽しそうに破顔する姿をよく見かけたものだ。
 でも、目の前の彼は、誠一さんは、藤代くんの持つ快活な少年らしさは抜けていて、もっと、ずっと、大人に見えた。いや、実際に大人なのだけれど。まるで私とは違う次元の人のようだった。
 最初こそ警戒心を抱けど、藤代くんという共通の話題が出来たなら、会話は何となく弾むというのもの。そこから、彼もまた武蔵森中学の卒業生だと知ったなら、盛り上がりは更に加速していく。


「ムラ爺、なっつかしー! 俺、あの"コサインにじょっ"って響きがスゲー好きでさ」
「黒板にチョークかつかつ鳴らしながら言いますよね」
「やるやる!」


 武蔵森中学の先生の話。寮生だけに語り継がれる武蔵森の七不思議。裏門のそばにある抜け道。――地元へ戻ってきたけれど、決して武蔵森が嫌いなわけではなかった。だから、誠一さんの口から出る武蔵森は、懐かしくて、本当に色々な話をした。電車の時刻を知りながら、まだいいや、と何回自分に言っただろう。

 それでも、時間は有限だ。会話が途切れた時、彼は「あ、そろそろ電車の時間だね」と言った。夕方と呼べる時間はもう既に過ぎており、彼が凭れ掛かっていた自販機の明かりが存在を際立たせ始めていて。私は「……そうですね」とちいさく返事をするしかなかった。
 本当のことを言えば、帰りたくなかった。彼の話は面白かったし、さっきの話題だって、まだ途中だ。続きが聞きたい。聞きたいことだってたくさんある。目の前の彼を、誠一さんを、もっと知りたかった。私は確かに、まだいいや、をあと数回繰り返したいと願っていたし、彼の口から、もうちょっと、を期待していた。


「もう結構暗くなってきちゃったからねー。流石に帰らないとマズイっしょ」
「あー……結構話してましたからね」
「スッゲー盛り上がったもんね。俺、喉カラカラ」
「私もです」
「あ、やっぱり?途中で飲み物買ったげれば良かったねー、失敗」


 だが彼の口から私が期待したような言葉は出てこなかった。当然かもしれない。だって、出会ったばかりだ。ちょっと危ないところを助けてもらって、それが偶然同じ中学の卒業生で、妙なつながりがあって、……それだけだ。その程度の繋がりだ。だから、きっと、彼が一言「さよなら」と言ってしまえば、もう会うことはないのだろう。そう思ったら、私のなかの「帰りたくない」がまた一段と強くなった気がした。
 俯くとコンクリートの上に黒い革靴が見えた。大人の靴だ。それが動き、じゃり、と砂を踏む音が響く。ああ、帰ってしまうのか。これで終わり。このまま、きっとさよならなんだ。――と。本気でそう思っていたのに。


「じゃあ次に会ったら昨日のお礼に美味しいドーナッツでもどう? 奢るよ」


 ――信じられない言葉を耳にした気がした。でも、誠一さんの声は確かに「明日も同じ時間に会える?」と鼓膜を通じて伝えていて、考えるより先に、首が勢い良く縦に動いていた。そんな私を誠一さんは可笑しそうに笑って。長い腕を振り、「じゃあまた明日」と言ってくれたのだ。その姿を背に駅へ向かって走り出したのは、彼と早く離れたかったからではない。電車に遅れそうだったからでもない。瞬間的に体内を駆け巡った感情を処理する方法が走ること以外に思いつかなかったからだ。改札からホームまで全速力で駆け上がる私の姿は、他の人から見たらさぞかし変だっただろう。階段を駆け上がると、もう既に夜の闇が町を覆い始めていた。きらきらと輝き始めた町を見て、わたしは、自分が恋に落ちていることを自覚した。昨日出会ったばかりで。しかもちゃんと会話を交わしたのは今日だけ。それでも、もう、引き返せないところまで、落ちてしまっていた。


 それから、放課後には誠一さんと会うのが決まりになっていた。時間を決めたわけでも、待ち合わせ場所を決めたわけでもなかったけれど、駅に行けば彼が「ちゃん」と私の名前を呼んで、どこからともなくひょっこりと顔を出す。そして去り際にお互いに「また明日」と言い合って。そうしてまた同じことを繰り返す。

 誠一さんと一緒に波打ち際に沿って浜辺を歩いた。
 美味しいと評判の店を一つずつ食べて回った。
 公園の遊具で子供よりも夢中で遊んだ。
 色々な話をした。どうでもいい話。面白おかしい話。真面目な話。たくさんした。

 話せば話すほど惹かれていって。会えば会うほど好きになった。
 ――世界が、きらめいた、気が、したんだ。彼と過ごす一秒一秒が楽しくて幸せでくるしくて、たまらなかった。


 でも、そんな時間は長くは続かなかった。彼との思い出は語りきれないほどたくさんあるのに、実際に彼といた時間はたったの一週間。数字にしてみると、ひどく呆気ない。それなのに、一週間の恋を、四年経った今でも私は捨てられずにいる。


『また会おうね』


 七日目のあの日、霙の降りしきる駅のホームで。いつもと少し違った響きの、それでも孕む意味は全く異なる言葉で、彼は去っていった。初めて出会った時と似たようなシチュエーション。それに、あの時と同じ、どこか寂しさを伺わせる笑顔で。けれど、あの時とは違い、私の手は彼の尻尾を掴まえることは出来なかった。

 ――――それ以来、誠一さんには会っていない。



******



 お湯が沸いたのだろうか。カタカタ、と薬缶の蓋が揺れる音がする。
 いつまでも感傷に浸っていてはいけない。いくら自分が常連客とはいえ、長時間テーブルに突っ伏す客などいては、マスターも迷惑だろう。今は他に客がいないからいいものを、もうすぐ日暮れ、会社帰りにコーヒーを一杯、とやってくる奇特なサラリーマンがやってくるかもしれない。
 重たい身体を起こし、鈍い手付きで会計を済ませれば、地下から地上へと続く階段を上っていく。階段の一番上まで辿り着いた途端、冷たい雫が風と一緒に頬を打った。――雪だ。いや、違う、雪にしては湿っぽい。霙だ。
 空を見上げる。暗雲。まさにそれが一面に広がっていた。ただでさえ短い昼間が一気に無くなってしまったみたいだ。そこから次から次へ冷たい物が落ちてくる。

 誠一さんに会った日も霙だった。冷たくて。寒くて。震えそうな日だった。
 そういえば藤代くんに告白された日も寒い冬の日だった。けれど、空は綺麗に晴れていて、それが余計に寒さを助長したが、空気がとても澄んだ夜だった。


「……あ、そうだ、電話しなきゃ」


 剥き出しで赤くなっているだろう鼻を、すん、と啜る。鞄を携帯を取り出し、手袋を外した。本当は寒いから外したくないのだけれど、外さないと上手く携帯を使えないのだからしょうがない。
 ピ、ピ、と電子音を鳴らしながら、一つの名前を探し、通話ボタンを押した。


『はい、ル・スブニールでございます』


 電話の向こうから凛と透き通った女性の声。その奥にはクラシック音楽だろうか、それともジャズか、ピアノの演奏が聞こえる。


「すみません、今日予約していたと申しますけれども」
様ですね、……はい、本日六時からのご予約で宜しかったでしょうか?』
「あ、はい、そうです。あの、急な用事が入ってしまいまして、……大変申し訳ないんですけれども、今日の予約、キャンセルにして頂けないでしょうか?」


 本当なら藤代くんと一緒に行くはずだったレストラン。完全予約制、コース主体のフレンチレストラン。雑誌で見てから一度行ってみたくて、でも値段的に気軽行ってしまえるお店じゃないから、ずっと足踏みしていた。――でも、今日は、もうすぐ付き合って一年目だから、って。当日は遠征で会えないからって。本当は練習で疲れているはずなのに。一回部屋に帰ってちゃんと着替えて出てくから、待ってて。一緒に行こう。そう言ってくれたのだ。
 だから、私も張り切ってレストランに予約の電話を入れ、滅多に着ないとっておきの服に袖を通し、ちょっとだけメイクを華やかにして、そうして、彼との待ち合わせ場所に向かったのだ。憧れのお店だったし、とても楽しみだった。夜が待ち遠しかった。藤代くんもメールで「もうすぐ着く!楽しみだね!」と言ってくれたのに。


 ――――それなのに。わたしは。わたしは、


 待ち合わせ場所に現れた彼を見た瞬間、言葉を失ってしまった。
 スーツ姿で現れた藤代くんは、一年前の成人式の時には残っていた少年らしさは息を潜め、ひどく大人になっていた。彼に会う度、最近では日に日に、見ない振りをしていたことが、恐れていたことが、目の前に突きつけられたようだった。

 その時の藤代くんは、誠一さんに、とてもよく似ていて。――私はその場に泣き崩れたのだ。

 「別れたい」と告げたのは、その後の話だ。大粒の涙を流し続ける私を、藤代くんは必死に宥めてくれるのに、どうしても誠一さんにしか見えなくて。ああ、もう限界だと思った。
 私は、四年前のあの日からずっと、彼を追いかけたままなのだ。彼が去り際に言った『また会おうね』を私は未だに捨てきれずにいる。



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