藤代くんと別れ話をしたあの日から一体何日経ったのだろう。
 寝て。起きて。大学へ行って。ご飯を食べて。お風呂に入って。寝て。そしてまた起きる。その繰り返しだ。どれだけ悩んでいても朝はやってくるし、学校に行かなければ卒業だって出来ないし、お腹だって減る。一日の行動は何ら変わりない。
 でも、毎日のように鳴っていた携帯が、とても静かで。それが藤代くんに別れ話をしたのだと否が応にも実感させられる。「おはよう! 七時にメールするのでいいんだよね? 起きた?」とか「今すぐテレビ見て! ニュースに俺出てる!!」とか、他愛のない話が、思わずふっと笑みを吐き出したくなるような、そんなメールが毎日のように届いていたのに。


「…………」


 誰もいない。携帯も鳴らない。もしかしたら藤代くんがテレビに映るんじゃないかと、どんな顔をしているのかと、そう考えたら怖くてテレビの電源は切ったままだ。ここ数日、私の部屋には沈黙だけが存在していた。

 窓を開けると潮の香りが室内にふわりと舞い込む。
 高校を卒業し、大学へと進むと同時に、私は地元を離れて一人暮らしをすることにした。そんなに遠くへ引っ越すわけではないけれど、地元から通うのには少し遠い地だ。でも、私には、それが少し有難かった。地元は生まれ育った住みよい街だったけれど、あの場所には、誠一さんの思い出がそこかしこに潜んでいるから。
 けれど、私だってそれほど盲目ではない。誠一さんの去り際の約束は、きっと社交辞令であり、幼い私への彼なりの気遣いであり、誠一さんにはもう会えないだろうと、高校を卒業する前にはちゃんと自覚していた。

 カーテンを窓脇に纏めれば、すぐそばの白壁に陶器で出来た小鳥が並んでいる。誠一さんにもらった、壁に一つずつ取り付けるタイプのフックハンガーだ。引っ越してきた時、壁に穴を開けると後々面倒よ、と母は言ったけれど、それを押し切り私は小鳥を並べて付けた。この小鳥のように誠一さんとの思い出は捨てがたいけれど、いつかは、ああそんなこともあったな、と若い自分を笑ってしまえるようになると思っていた。藤代くんに再会し、四年前から色褪せていた気持ちが、たしかに動いたから、きっと大丈夫だと。藤代くんにもいつか話そう。こんなことがあったんだよ、偶然だよね、と。驚かれるかもしれないけど、いつか、笑って。必ず話そうと。そうしたら、彼と一緒に誠一さんにも会いにいけるだろう。四年前の約束を果たしに行こうと思っていた。


「……ホント、ばか、ばかだ」


 にも関わらず、このザマだ。傷ついて。それ以上に大事な人を傷つけて。単に自分が未練がましい人物だと思い知っただけ。
 ソファに倒れ込むように転がる。大学はいい。今日は休もう。あとで友達にノートとレジュメのコピーを貰って、何かしらレポート提出しておけば何とかなるだろう。ゼミの教授にはきっと友達が上手いこと言ってくれる筈だ。
 あの日から大学を休みがちな私を友人たちは気遣ってくれていた。余程私の様子がおかしいのか、それとも単に腫れ物扱いなのか、深い所までは突っ込んでこない。でもそれが今はとても有難かった。ソファに寝転び、天井を見上げる。瞼を落とすとすぐに暗闇がやってきた。
 ――どうして誠一さんなんだろう。有り余った時間のなかで私はそればかりを考えていた。



******



ちゃん。これ、あげる」


 誠一さんの言葉と一緒に、目の前に茶色い紙袋が置かれたのは、丸いドーナッツが三日月型になった時だった。
 「こないだのお礼」と称したプレゼントは、一目見た瞬間に、私のお気に入りグッズへ殿堂入りを果たした。小鳥を手に「かわいい」とありきたりな感想を馬鹿みたいに何度も繰り返す私を、誠一さんはさも満足そうに眺めていた。テーブルを挟み、向かい側に腰かけた誠一さんはストローを咥えながら「ドーナッツどう?」と尋ねる。


「もう、すっごい、おいしいです」
「そっか、よかった」
「このお店、開店した時から気になってたんですよね」


 さっきの小鳥のフックハンガーにしろ、このドーナッツにしろ、隣でほこほこと湯気を立てているカフェオレにしろ、誠一さんはどうしてこうも私の好みの物を次々に出してくるのか。また一口、ドーナッツに齧り付く。うん、やっぱり美味しい。美味しいものを食べると頬が緩むのは最早人間の性である。でも余程私の顔は緩んでいたらしい。誠一さんが、ふは、と息を吐いて笑った。


ちゃんてばスゲーうまそーに食うね。俺ももう一個食べよっかな」
「だって美味しいですもん。誠一さん、よくこのお店知ってましたね」
「あー、知り合いがすっごい勢いでおススメ!ってごり押ししてたからさー」


 それで、と言った、誠一さんの目許がふっと緩む。私がさっき浮かべていたような、美味しい物を食べた時とはまた違った笑み。懐かしむような。愛おしむような。


「……、……もしかして彼女さんですか?」


 聞くな。尋ねるな。――そう思っていたのに、カフェオレで喉を潤し過ぎてしまったのだろうか。思いの外、言葉がするりと現れた。女の勘は嫌なものほどよく当たる。本当にその通りだ。誠一さんは少し目を見張った後、「うん」と首を縦に振った。笑っていたけど、その目は少しさみしそうだった。



******



 誠一さんは海が好きな人だった。そして何かにつけて浜辺に下りたがる。砂の上を歩く感触がすきらしい。足元の頼りない感じがいいらしいが、その割に、よろめきながら歩く私と違い、誠一さんは結構平然に歩いているように見えた。歩くのに疲れたら、堤防の階段に座り、砂で遊んだり、ただ波を眺めていたり。海が似合う人だった。


「……なんかさー、セーラー服っていいよねー」
「突然何ですか」
「えー、だってそう思ったから。かわいーじゃん」
「……それ、絶対セクハラですよ、誠一さん」
「げ、マジで?」
「はい」
「そっかー……二十歳過ぎたら高校生にそういうこと言うとセクハラなんだ……」


 ショック、なんて言いながら、その口元を手で覆い隠す。子供みたい。感情がすぐに顔に出るから、見ていて飽きない。それに会話の引き出しが多い所為で、話し始めると盛り上がって止まらない。聞いていて楽しい。しかも、言いたい事は無邪気にあれこれ口にするものだから、話題があっちこっちに飛び火する。そのせいで、後で何であんなに笑ったのかと思い返すと、何の話題で笑っていたのか忘れてしまう程だ。それで私たちはまた笑ってしまう。
 私とは本当に逆だ。私は感情表現が得意じゃない、というか、思っていてもなかなか上手く表情に繋がらない。言い方もどこかつっけんどんになってしまい、冷たく思われる事も少なくなかった。だから、表情をくるくると変える誠一さんが羨ましくて、目が離せなかった。

 ――でも、誠一さんに見られるのは苦手だった。
 浜辺にいた所為で、靴を脱ぎ、片足立ちで靴の中に入ってしまった砂を落としていると、不意に誠一さんの視線を感じた。実際に誠一さんはこっちを見ていて、何かあるのかと思っても、何も言わない。
 たまに、ふとした瞬間に、誠一さんの視線を感じる時があった。そういう時は何だかひどく落ち着かないのだ。見る事には慣れているが、いざ自分が見られていると思うと、恥ずかしい。
 なかなか綺麗に落ちてこない砂が苛立たしく、一挙に面倒くささが襲い、結局靴下ごと脱ぎ捨ててしまった。素足の裏側に砂の感触が直に伝わる。誠一さんの視線はまだ外れない。彼とは反対方向へ一歩踏み出す。靴で歩くよりも足元が頼りない。


「……あんまり見ないでもらえませんか?」
「なんで?」
「何でも、です」


 背中側から誠一さんの声が響く。何だか楽しそうだ。振り向いたら笑っていそうだなあと思ったけれど、振り向けなかった。本当に見ないでほしい。その理由を誤魔化す代わりに、ぎゅ、ぎゅ、と体重をかけて足で砂を押しこむ。


「だってセーラー服かわいーんだもん。武蔵森は中等部も高等部もブレザーだったからさー」
「それはそうですけど。でもブレザーも可愛いじゃないですか」
「分かってないなー。セーラー服にしか無い魅力があるんだって!」
「あーもう、はいはい。いいから、どっか別の所見ててください」
「えー、ちゃんのケチ」
「もう、セクハラで訴えますよ!」


 誠一さんに見られるのは苦手だった。胸がざわざわして、落ち着かなくて、意味もなく顔が火照ってくる。しっかり立っていないと攫われそうだ。この頼りない足場では、いとも容易く、全部攫われて、持っていかれてしまいそう。
 波の音が淡くさざめいて、黄昏色が海へ広がっていく。砂は相変わらず頼りなく足元を流れ。攫われないように。攫われないように。私は必死に立っていた。彼がどんな表情で自分を見ているかなんて確かめる勇気もなく、自分の幼い恋心を堰き止めるので精一杯だった。ああ、でも、攫われないようになんて、もう手遅れかもなあ、なんて他人事のように思った。



******



 瞼を落とせば、すぐそこに、彼がいた四年前の景色が浮かび上がる。
 この四年間で、何度、誠一さんの夢を見ただろう。実際にあったこと。ありもしなかった、思い出の続きまで。何度も。何度も。まるで忘れるなと言われていると錯覚しそうなほど、繰り返し、繰り返し。何度も。

 私だって馬鹿じゃない。分かっている。分かっているんだ。分かっているのに、私は、とても愚かな女で。こんな場所にいるはずない、と、そう思っているのに、探してしまう。白い浜辺に。道端のドーナッツ店に。通りすがる見知らぬセーラー服の少女に。誠一さんとの思い出が一つも染み付いていないはずのこの町でも、潮の香りが鼻をくすぐるだけで、思い出してしまうよ。

 高校二年の冬。誠一さんと会っていた、あの日々。私は放課後が始まった瞬間に帰り支度をし、慌ただしく校門を駆け抜けた。坂道を一気に駆け下り、細い路地を右へ左へ曲がっていく。胸が上下する。呼吸が弾む。くるしい。でも止められない。毎日、昼も、夜も、彼に会うまでの時間は途方もなく長く。夕闇が迫る時間だけが異様に短かった。
 ――あの衝動を恋と呼ぶ以外に何と言えばよかったのだろう。ちょっとした言葉に、恥ずかしくなったり、傷ついたり、揺らめいたり。手を繋いだこともなかった。キスをしたこともなかった。彼に触れたことすら、最初に夢中で手を伸ばしたあの一度きりだ。それなのに初めてだったんだ。あんなに誰かに心が動いたのは初めてだった。


ちゃん、見て! 虹が出てるよ!』


 そう言っただけで、彼が指差した先から、世界が、虹色に輝いた気がした。







 ――プルルル、とすぐ耳元で携帯が震えた。アラームかと思ったが、携帯の画面には"着信"の文字と見知らぬ番号が表示されている。誰だろうと思って様子を見ていても鳴り止む気配は一切無く、初期設定のままの機械的な着信音が部屋中に響き渡る。そういえば、藤代くんに「もいい加減着信変えればいいのに」って言われた事があったな。いや、今更思い出してどうする。さっきまで誠一さんのことを思い出していたくせに。人知れず自嘲し、通話ボタンを押した。


「……はい、もしもし」
『もしもし? あの、すみません、さんの携帯ですか?』


 聞き覚えのない声だった。藤代くんとか誠一さんに比べれば、少し高い気もするけれど、落ち着いた深い男の人の声。「そうですけど」と控えめに答えれば、短く安堵の息が吐く音がした。


『武蔵森で一緒だった笠井ですけど』
「……ああ! あの、サッカー部の、笠井くん?」
『うん、久しぶり』


 笠井くん。笠井竹巳くん。武蔵森サッカー部で、藤代くんと仲の良い笠井くん。藤代くんファンの子に付き合わされていたから、その顔は遠目からだけど良く見かけていた。その顔立ちから、藤代くんのようなアイドル的存在ではなかったけれど、ひっそりと、でも本気で好きになる女の子が多い、そんな人だった。
 でも、笠井くんとはそれだけじゃなくて、私にしては珍しくほんの少しだけ面識がある稀な存在でもあった。放送委員会で一緒だった時、何度か当番が一緒の時があったのだ。といっても、委員会は一年ごとに変わるし、笠井くんと同じ当番の日は、女子委員内で競争率がひどく激しかったから、一緒だったのは本当に片手で足りる程だ。


『突然電話してごめん』
「ううん。確かにちょっと吃驚はしたけど、大丈夫」


 見えない筈の向こう側にいる笠井くんに首を振る。でも、一体どうして。何だろう、肌の一枚下がざわざわする。私の知らない所で警鐘が鳴っているような。そんな。


『ごめん、ちょっと、本当、緊急で』


 電話越しにも笠井くんの動揺が感じ取れた。彼は焦っている。私の知る笠井くんは、昼の放送で流すクラシック音楽にじっと耳を傾けているか、サッカーをしていても何処か人を分析しながら戦っているような、そんな印象ばかりで。その様子だけで何だかとてつもなく嫌な予感がした。


『誠二がいなくなったんだ。さん、何か知らない?』


 女の勘は嫌なものほど良く当たる。携帯を握りしめて茫然としながら、その言葉を改めて体感した。



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