俺も渋沢さんに聞いただけだから、詳しい事は知らないんだけど、でも、何日か前からいなくなったらしい。今ちょうどシーズンオフで、本格的なクラブ練習は無いらしいんだけど、もうすぐキャンプも始まるし、コーチもすごい心配してて。……本当にごめん。さんが誠二と別れたことは聞いたんだ。なのに突然こんな電話してごめん。三上さんにも電話しない方がいいって言われたんだけど、でも、――明日、大事な試合があって。公式戦でもなんでもないし、小さいとこでやるから周りにもあんまり知られてないんだけど、でも、大事な試合なんだ。昔の選抜メンバーで集まるから楽しみだって、誠二も、言ってたから。試合の前には帰ってくるだろうって先輩は言ってたんだけど、でもまだ帰ってこないし、なんか心配で。本当に図々しいお願いだって分かってるし、そう思ってくれてもいいよ。でも、本当に、さんだけが頼りなんだ。


 笠井くんは事の顛末を彼が知る範囲内であれこれ教えてくれた。その声はやっぱり何処か動揺していて。けれど私はそれより遥かに動揺していたに違いない。笠井くんの電話にちゃんと返事をしていたかどうかすら怪しいのだ。
 でも、笠井くんとの電話が終わった後、――私は行かなくてはと思った。
 笠井くんとの電話をする合間にいつしか起こしてしまった身体を跳ねあがらせ、手近にあったコートとマフラーを引っ掴む。財布。携帯。携帯の充電器。後はいい。何か必要な物があればその時に買えばいい。化粧も服装も適当だけどこれでいい、気にしていられない。――行かなくては。それだけが頭を駆け巡っていた。

 走って、走って、バスに飛び乗る。そこからまた走って駅へ行く。電車に乗る。それから更にまた走る。昔はもっと速く走れた筈なのにとか。駅は人が多くて走りにくいとか。バスも電車ももっとスピード上げて走ればいいのにとか。いつもは何とも思わない物がひどくもどかしく感じた。
 息が切れる。胸が上下する。途中で息を整えるために歩いたりもしたけれど、ほとんど走って、走って、探して。それでも何処にも藤代くんの姿は見えなかった。無駄かと思いつつも彼の携帯に何回か電話をしてみたが、案の定、繋がらない。不意に携帯が震えて、藤代くんかと思ったけれど、表示されたのは彼の名前ではなかった。大きく息を吸い、未だに整わない呼吸をどうにか押し込めながら、通話ボタンを押した。耳元で『もしもし? さん?』と笠井くんの声が響いた。


「もしもし。ねえ、藤代くん、見つかった?」
『ううん。まだだよ』
「そっか、……うん、分かった」
さん、今どの辺探してるの?』
「藤代くんと行った公園とか、河川敷とか、……同窓会で行ったお店の近く」
『分かった。じゃあ俺は中学に行ってみるよ』
「えっ、」


 どうして中学なんだろう。素直な疑問が頭を過る。私はサッカーをしている藤代くんにはあまり詳しくないから、自分の思い付く場所を探しているだけで、笠井くんなら友達なんだからもっと他に彼が行きそうな場所を知っていそうなのに。そこはもう探し終えたとか。いや、俺もこれから探し始めるから、と私が出掛ける前の電話で言っていた筈だから、まだ探す余地はある筈だろう。彼は携帯越しにでも私の表情が伺えるのだろうか。私が尋ねるよりも先に答えが返ってきた。


『これは俺の勘だけど、誠二はたぶんさんに関係する何処かにいると思うんだ』
「でも、私とは、別れたのに……」


 正確には、あの日藤代くんから確固たる返事を聞いた訳ではないので、決定的ではないにしても、別れ話を切り出された相手だ。そうだ。そうなのだ。あの時の藤代くんの表情を思い出して、知れずと胸が痛んだ。
 そんな私の様子も知らず、『だからだよ』と笠井くんはしっかりとした口調で言い切った。探している間に平静を取り戻したのだろうか。そこに最初にあった焦りは感じられず、ただ落ち着いた声が私の鼓膜を揺らす。


『俺は中学の頃からアイツを知ってるから。誠二はさんが思ってるよりずっとさんが好きだよ』


 だから、きっとさんとの思い出の場所にいると思うんだ。

 そう言って、彼は『じゃあまた後で連絡するね』と通話を断ち切った。
 藤代くんは、確かに中学の時から私のことを好きだと言ってくれていたけれど、でもいつから好きだったとか、どういう風に好きになったとか、そういう具体的な話を彼の口から聞いた事は無かった。
 今思えば、そういう私も、どうして藤代くんと付き合おうと思ったのか直接彼へ口にしたことはなかったかもしれない。この気持ちを伝えるには、やはり根底に存在する誠一さんの話が必要不可欠であり、私の唇を接着剤のように固めていた。あれだけ一緒にいたのにも関わらず、私たちはとても肝心な事を語り合っていないのかもしれない。
 もしも、本当に、笠井くんの言う通りなら、私はどれだけ彼を傷つけたのだろう。どれだけ落ち込ませしまったのだろう。けれど、会ってどうなるというのか、会った所でまた傷つけるだけではないのか。それでも。私は行かなくてはと思うのだ。藤代くんを探して。会って。傷つけたのが自分なら、彼の傷を受け止めなければ。そして今度こそ大事な話をしよう。

 藤代くんと付き合ってから行った思い出の場所はほとんど巡った。
 笠井くんの言葉を信じるなら、あとは何処だ。私と藤代くんの思い出の場所。私はそこに辿り着かなくてはいけない。思い出せ。思い出せ。藤代くんと行った場所。交わした会話。疲労ですっかり鈍ってしまった脳を必死に動かす。けれど、思い当たる場所は、全て探し果ててしまっていた。


 ――のこと、中学の頃からずっと好きだったんだ。


 同窓会の夜、藤代くんが。そしてさっきは笠井くんが。藤代くんは私のことを中学の頃から好きだと言っていた。――もし仮に、彼が私との思い出の場所にいるとして。それが付き合っている間でなければ、あと残りは、中学時代の藤代くんしかいない。でも、中学時代に藤代くんと会話をした記憶はほとんどない。もしかしたら私が忘れているだけで藤代くんの中にはあるのかもしれない。私が知る中学時代の藤代くんは、友達の横で眺めた窓枠の中にいる藤代くん。笠井くんの隣で破顔する藤代くん。それと、グラウンドで必死にボールを追いかける藤代くん。後は、後は、――――誠一さんの口から聞いた藤代くん、だ。



******



 誠一さんの口からは藤代くんの話がよく出ていた。私との共通の話題だったからかもしれないけれど、ただ単純に彼らが仲の良い兄弟だったからかもしれない。年末年始に実家に戻って来た時には徹夜で格闘ゲームをしたとか。そのまま炬燵で寝てしまい、新年早々両親に怒られたとか。武蔵森中学のサッカー部にはどんなに凄い先輩がいて、どんな凄い相手と試合をしたか、と藤代くんは目を輝かせながら報告していたとか。普段の生活から、あれこれ、聞かされていた。でも、誠一さんの語り口調は無邪気で楽しそうだったし、それが何かと私の笑いのツボを刺激してくることもあって、高校を卒業してからの方が藤代くんの存在を身近に感じたくらいだ。


「ねえ、ちゃんって誠二とよく目合ったりしてなかった?」


 その日も当たり前のように誠一さんと浜辺で肩を並べていた。相変わらず私は歩くのが下手で、よろめきながら歩いていたら、不意に、誠一さんがそう尋ねてきたのだ。


「何でですか?」
「えー……なんとなく?」


 そう言って誠一さんは首を軽く傾げる。誠一さんはたまにこういう節があった。聞きたいと思えば、話の脈絡も何も無く、ねえ、と私の名前を呼び、とても唐突に違う話を始めるのだ。最初こそ戸惑ったものの、幾許か過ぎれば、経験値が溜まったのか、何とも思わなくなってきていた。んー、と言葉を濁しながら、武蔵森時代の記憶を穿り返す。


「別に、合ってたような、合ってなかったような?」
「何それ、すげービミョー」
「だって藤代くん見る時って大抵周りに藤代くんファンの子いたし、その子たちだって"藤代くんと目合っちゃった!きゃー!"とか言ってたから。目が合ったって言っても、他の子を見てたかもしれませんし」
「……俺は、……誠二は、ちゃんを見てたと思うよ」


 この時、ほんの一瞬、誠一さんから快活さが息を潜める。誠一さんに見られると落ち着かない時はたくさんあったけれど、この時は一際胸がざわめいた。どうして、そんな顔で、私を見ているのか。いつもは見守るような視線だったのに。どうして、そんな、熱を帯びた視線で。でもそれは本当にほんの一瞬だけだった。けれど、私の意識を攫っていくには充分すぎる時間で。「どうして分かるんですか」と尋ねる私の声は掠れていた。そんな私を余所に誠一さんは、


「アニキの勘!」


 そう言って、ひひ、と悪戯っぽく、微笑んだ。



******











 ――――不意に、一つの考えに思い当たった。
 いや、まさか、有り得ない。誰かに話したら馬鹿みたいだと罵られそうな考えだ。あの優しい笠井くんですら、そう思ってしまうだろう。思い直せ。よくよく考えろ。


 でも。まさか。

 まさか、だ。本当にまさかのまさかだ。
 嘘だ。勘違いだ。脳はそう信号を出しているけれど、なぜ「そんなこと」と割り切れないのか。女の勘は嫌なものほどよく当たる。私はその言葉を嫌という程体感したからかもしれない。

 走る時間も惜しくて、手近な場所でタクシーを捕まえ、駅へと急ぐ。改札が開く間すら惜しみ電車へと飛び乗った。もしもこの勘が間違っていたとして、単なる勘違いだと笑い飛ばせばいいし、少し遠出になってしまうが今日中に引き返せない距離ではない。大丈夫だ。


 私は、今、とても馬鹿な事を考えている。けれど思い出してしまったのだ。思い当たってしまったのだ。私と藤代くんの思い出の場所。いや、正確には、私と誠一さんの思い出の場所。私が中学を卒業した後、そして高校を卒業する前まで、住んでいたあの町。――この四年という長い時間を掛けて、私は、私に、自分でフィルターを掛けていたのかもしれない。
 瞼を閉じれば、今でも、あの虹色の世界が思い浮かぶ。
 今日一日で藤代くんのことをずっと考えて。そして同時に誠一さんのことも考えて。これでもかというくらいに脳をフル回転させ、思い出を掘り起こした。そうして思い出したのだ――――四年前のあの日、『また会おうね』と言った誠一さんは笑っていて。その目許に小さな泣きぼくろがあったことを。藤代くんと別れ話をしたあの日、涙で滲みきった視界の向こうには、ダークグレーのスーツ姿があったことを。喫茶店のテーブルの下にあった爪先は大人の男性を思わせる黒い革靴だった。四年前のあの日、私は十七歳で、誠一さんは二十一歳で――今の私たちと同じ歳だ。

 藤代くんが誠一さんに似てきたのではなく、もしかしたら彼は――――



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