「っ、しばらく会えないって何ですか。どうしてですか」
「…………、ごめん」
「そんなの、いやです」
「うん。俺も嫌だよ」
「そうじゃなくて……っいやです、誠一さん、行かないでください……お願いします……、いかないで、」
「……ありがとう、ちゃん」


 あの日、私は誠一さんにこの淡い恋心をぐしゃぐしゃにされたような気がした。いや、確かに、私の表情は涙でぐしゃぐしゃだったから、ある意味正しいのかもしれないけれど。
 誠一さんに出会って、わたしは、自分でも知らないわたしがいる事を知ったのだ。
 視線を感じたなら背中を向けて熱を帯びる頬を誤魔化したりだとか。
 ちょっとした仕草に心を奪われ、目が離せなくなったりだとか。
 あの美味しいドーナッツ店を彼女に紹介されたのだと知れば、ひっそりと傷付き。
 ――感情表現が苦手だとばかり思っていたのに、表情豊かな誠一さんにつられて、くるり、くるり、その色を変えていく。


「また会おうね」


 そうして、別れのあの日、私は人目も気にせず、大声で泣いた。嗚咽が止まらず苦しみながら、只管に、泣いた。「すきです」の四文字すらも絞り出せぬままに。
 誠一さんといると、どんどんと新しい自分が出てくる。恋がこんなにも激しい感情だなんて知らなかった。これが恋なら私はきっと誠一さんが初めての恋に違いない。彼の言葉に、些細な仕草に、目の前の世界が虹色に輝いたのだ。そうして私は新しい私を見つける。彼の手でいろんな色に染められていったのだ。彼がいるとわたしは虹になる。本気でそう思っていたよ。



******



 甲高い音を鳴らしながら電車はゆっくりと進む事を止める。音を立てて開く扉がもどかしく、隙間をすり抜けるようにホームへと降り立った。
 足先がコンクリートの感触を確かめた途端、潮の香りを乗せた風が身体を包む。ああ、懐かしい。街はちょうど黄昏色に染まる時間帯で、ぽつり、ぽつり、と灯りが見える。何時振りに帰ってきただろうか。実家にさえ、レポートの提出があるやら、ゼミの集会に行かなければならないやら、何だかんだと理由を付け、なかなか戻って来ようとしなかった。
 けれど今は悠長に懐かしんでいる場合ではない。そんなのはいつでも出来る。感傷に駆られかけた心を押し込め、私は再び駆け出した。彼は一体何処にいるのだろう。思い当たる場所は沢山ある。駅のホーム。改札横の自販機。大通りのドーナッツ店。白い浜辺。中央の公園。ああ、本当に、彼は一体何処にいるのだろう。途方に暮れてしまいそうな私を嘲笑うかのように、空から冷たい雫が降り注ぐ。


 誠一さんと別れてから私の世界は急速に色褪せてしまった。彼といた時には輝いていた景色が、一人で見るとこんなにも味気ないものなのかと。何度、思ったことだろう。それと一緒に私の表情もまた表現乏しいものへと変わってしまった。誠一さんと別れて何日経っても、何カ月経っても、高校を卒業しても、その後も、変わらなくて。きっともう恋なんて出来ないんだろう。そう思っていた。――藤代くんと再会するまでは。

のこと、中学の頃からずっと好きだったんだ』

 「なんてね」と悪戯っぽく笑った顔に。月明かりの下で赤く染まった頬に。向けられた視線に。あの時、たしかに、私は色を取り戻した気がしたのだ。
 誠一さんの弟だから似ているのは当たり前で、もしかしたら藤代くんを通して誠一さんを見ているのではないかと、罪悪感に駆られる事も少なくなかった。けれど、藤代くんといると楽しくて、隣にいるとあったかくて、しあわせで。あの時失ってしまったものがそこにあって。求めずにはいられなかったのだ。
 けれど、側にいるにつれ、心が満たされていくほどに、藤代くんに誠一さんの面影を見て、くるしくなっていったのも本当だ。

 ――だが、今思えば、すべてが当然で必然だったのかもしれない。

 身体を流れていく風が冷たい。ようやく霙は止んだけれど、前髪がびしょびしょで前が見えない。でも走らなくては。足が縺れそうになりながら階段を駆け降りる。一番下まで降りれば、足元が一挙に頼りなくなる。誠一さんと二人で何度も歩いた浜辺。夕闇が迫る暗い海を前に。――そこにその人はいた。ダークグレーのスーツを身に纏い、ふらつきながら歩み寄る私を余所に、彼は平然と立っていた。表情はよく見えない。でも分かる。彼は、そこにいたのは、



「また会えたね」



 誠一さんであり、藤代くんであり、――わたしのすきなひとだった。

 今はもう彼を探し求めて走り回ったりしていないはずなのに、どうしてだろう、息がくるしい。いたい。心臓がいたい。壊れてしまったみたいだ。視界すらもう、滲んで、何も見えない。
 大粒の涙を流しながら茫然と立ち尽くす私を藤代くんの腕がそっと包み込む。あの腕だ。別れ話をした時に必死で私を宥めたやさしい腕。高校の時に「また明日」と私に向かって振り続けられた長い腕。――ずっと会いたかった。会いたかった。会いたくて、会いたくて、堪らなかった。――でも本当は会ってたんだね。ちゃんと会いに来てくれていたんだね。私が気付かなかっただけで、ちゃんと、彼は約束を果たしてくれていたのだ。

 きっと全ては起こるべくして起こったのだ。
 出会ったのも。恋をしたのも。全部だ。別れ話をしたあの日でさえ、彼に寂しさを伺わせる笑みを浮かばせ、そして四年前の私がそれに心惹かれたのだから。陳腐な言葉で言い表してしまえば、"運命"なんて呼べるほどの確率で、全ては起こっていたのかもしれない。きっと他でもないこの瞬間のために。











 どれだけそうしていただろう。藤代くんは涙を流し尽くした私の腕を引き、近くの休憩所のベンチへと導いた。そして「ちょっと待ってて」と言い残し、一度その場を離れ、幾許もしない内に戻ってきた。その手にはほこほこと湯気を立てるカフェオレとドーナッツが握られていて。あの時、誠一さんにご馳走になったのと同じものだ。――当然だ。あの時の美味しさに感動し、いつだったか私が藤代くんをあのお店へと連れていき、二人で「おいしいね」と言い合ったのだから。あのドーナッツ店を知っていたのも。私がカフェオレが好きなことを知っているのも。小鳥のフックハンガーが気に入るだろうと思ったことも。全てが分かった今、ジグソーパズルのピースのように何もかも辻褄が合う。
 カフェオレの入った容器に冷えきった唇を付ける。あったかい。走り疲れて涸れつつあった喉に、身体の奥から潤っていくようだ。それからドーナッツを二つに割り、彼へその半分を手渡し、一口齧りついた。それから、カフェオレで充分に潤った喉で、私は今まで言えなかった話を始めた。

 高校二年の冬の日、誠一さんに出会ったときのこと。どれだけ彼に惹かれ、好きだったか。別れた日には、どれだけさびしく、悲しかったか。それからの日々が色褪せていたこと。藤代くんと出会って変わったこと。同時に罪悪感が消えなかったこと。スーツ姿の藤代くんが誠一さんに見えて別れ話を切り出したこと。全部、話した。その間、藤代くんは時折「うん」と相槌を打つか、私へ視線を注いだまま黙って聞いていた。

 そうして全て語り終わった後、促したわけではないけれど、私に続くように藤代くんが語り始めた。私はそれを彼と同じようにじっと聞いていた。――彼とは付き合っている間もたくさん会話をしたはずなのに、今まで聞くことのなかったものだったから。


 中学の時さ、って友達と一緒に俺のこと見に来てたっしょ? でも、見に来てる割には友達と一緒にきゃーきゃー騒いでるわけでもないしさ。周りとは反応が全然違くて、どんなヤツだろうってずっと思って見てた。ファンの子がいっぱい練習見に来てたりしてたけど、その中にあの子今日はいないのかなーって探したりしてたんだよね。タクに名前聞いて、そっからのことあれこれ聞いたこともあったよ。それくらい、ずーっと見てて、気付いた時にはスゲー好きだった。だから、初めて話した時、……って言っても、肩がぶつかっちゃって「ごめんなさい」って言われただけだけど、話した時はすっごい嬉しかった。当然、そのまま武蔵森の高等部に行くと思ってたから、いなくて、マジでへこんだし。何してんのかなって良く考えてたよ。だから、同窓会の時にもう一回会えて嬉しかった。ずっと会いたかった。

 ……別れたいって言われた時、スゲー悲しかった。こんなに好きなのに、あんなに幸せだったのに、何でだよ、って。

 今でもいつタイムスリップしたのか覚えてないんだよね。でも、四年前にいるって分かった時、……なんでだか分かんないけど、に会いに行こうって思って、気づいたら電車に乗ってた。中学の時と二十歳になってからのしか知らないから、知りたくなったのかも。……あの日、会ったのは偶然じゃないよ。俺が、高校生のに会いたくて、会いに行ったんだ。でも、俺はのことばっか考えてたのに、高校生のは、そんなの知らないで、わらってて。まあ、当然っちゃ当然なんだけどさー……なんつーか、こう、さ。何やってんだろうって落ち込んで、駅のホームで頭冷やしてたら、……来たんだ。ちゃんが。
 最初っから怒られてびっくりしたけど、でも見知らぬ俺のために肩弾ませて、手震わせて、……ああ、やっぱだなって思った。見た目が若いだけで、やっぱ話し方つっけんどんだし、結構すぐ怒るし、ちょっと恥ずかしがりだし。ちゃんは変わらずにで、ずっとあのままでもいいかなとも思ったけど、うっかり兄貴の名前出しちゃったから、俺として話せなくて、辛かったし、俺嘘吐くのそんなに上手くないからすぐにボロ出そうだったしさ。……それに、なんか、今のに会いたくなった。もう一回、やり直したい、って思ったんだ。


「まさか"また会おうね"って言ってすぐ会えるとは思えなかったけど」
「そうなの?」
「うん。気づいたら海で突っ立っててさ、これ現実かなーってぼーっとしてた」
「そうなんだ」
の姿見て、やっと"あ、戻って来たんだんだな"って実感したもん」
「……私には全然すぐじゃなかったけどね」
「うん、……そうだよね、四年だもんね」


 不意に視線が絡まり、藤代くんの手の甲がそっと私の頬に触れる。冷たい温度は頬全体を包みこむようなものへと変わり、親指がその表面を撫ぜる。
 ――不思議だ。あれだけ誠一さんを意識して藤代くんを見ていたというのに、今では同じだ、誠一さんでもあり藤代くんにも見える。でも呼び方がちがうだけだ。どちらも変わらない。私の心はたしかに、このひとがすきだと、音を立てて告げている。


「ごめんね、藤代くん」
「何が?」
「今までちゃんと昔の話してなかったし、……それに、未練があったのに藤代くんと付き合って、傷付けて、……最低だよね」
「いーんだよ。結局、両方俺だったんだから」
「でも、」
「俺がいいって言ってんだからいいの! 二回俺に恋したと思えばさ」
「……なにそれ」


 話す口調は茶化したように弾んでいたけれど、その表情は違っていた。あの日、一番初めに彼に心惹かれた、すこしさびしそうな、あの笑み。あれほど焦がれた表情がすぐ目の前にある。頬に触れる手に自分のをそっと重ねた。冷たい。でも、その冷たさすら、今は。もう流し果てたはずの涙がまた込み上げてくる。


「ずっと、ずっと好きだったよ」
「長さでいうなら俺の方がずっと好きだったよ。見てるだけだった中学の時も、高校時代のちゃんも、今のも、全部好きだ」


 その言葉を合図に、私の身体は藤代くんの胸の中へと押し込められた。私も藤代くんも冬の寒空で身体は冷え切っているはずなのに、どうしてだろうか、あつい。血が全身を巡っているのが分かる。藤代くんの腕はしっかりと私を締め付けていて、息苦しいほどの圧迫感なのに、全然嫌じゃない。むしろ、もっと、もっと、と身体が求めている。背中に回した手にぎゅっと力を込めた。少し湿った布の感触を確かめるように握りしめる。


「……藤代くん、ごめんね。スーツ、皺くちゃになっちゃったね」
「何言ってんの。俺のスーツ、最初に皺付けたのじゃん」
「うん、そうだね。……そう、だったね」


 一段と強まる腕の力に応えるように、私もまた力を強める。縋りつくように。掴まえるように。ああ、どうか、もう離れてしまいませんように。溶けあう温度に身を委ねながら、そっと瞼を落とした。


 ――けれど、そんな時間は長くは続かなかった。その場の空気を切り裂くように、携帯の着信音が響いたのだ。鞄の中から聞こえる、プルルル、と初期設定のままの着信音は、彼のではなく私の携帯からだ。しかし、携帯に出ようにも、藤代くんの腕は解けそうにない。


「……ねえ、藤代くん」
「出なくていいよ」
「でも、」
「もうちょっとこうしてたい」


 そしてまた藤代くんとの距離が詰まる。携帯は鳴り止まないのに、多分電話に出たほうがいいんだと思うのに、額に落ちてきた藤代くんの唇の温もりが私の思考回路を一挙に奪い去っていく。
 ――でも、現実はそう上手くいくわけではなく。私の携帯が鳴り止んだかと思えば、次は藤代くんの携帯が鳴り始めたのだ。一向に鳴り止まない音楽に、今度は流石に出ないわけにもいかない。藤代くんは不服そうに携帯を取り出し、やっぱり不機嫌そうに「もしもし?」と電話に出た。あまり良くは聞こえなかったけれど、『……っ、のバカ!』と断片的に聞こえた声は、笠井くんの声によく似ていて。今更になって彼にここへ来ることを連絡していなかったことを思い出し、上がっていた体温が一気に下がったような気がした。藤代くんの肩が一気に萎れたので、多分彼も同じ気持ちだったのだろう。


「うん、……そう、も一緒……うん……ごめん」


 藤代くんの声が少しずつ小さくなっていく。笠井くんは怒っているのかもしれない。当たり前だ。あれだけ藤代くんの心配してくれていたのに。私にまで連絡してくれたのに。いくら会えたことが嬉しかったとはいえ、私も軽率だった。私も一言謝りたくて、藤代くんに携帯を貸して欲しいと手振りで訴えたのだが、藤代くんはこっちを見て、その手を掴んだだけだ。違うと唇で訴えてみてもまるで効果無し。


「ごめん、タク。でも今日は帰らない。でも明日には絶対帰るから!」


 挙句の果てに、そう言うや否や、通話を断ち切ってしまった。そうして驚きで目を見張っている合間に、今度は掴まれた手がぐいと強い力で引かれる。よろめきかける私を余所に、藤代くんはどんどんと歩き出してしまう。身体はつられるままに動いてしまうけれど、頭はまだぐるぐると混乱したままだ。


「ねえ、……っ! どこに行くの?」
「決めてないけど、どっか二人になれそうなトコ」
「な、んで、藤代くん、帰らないと駄目なんじゃないの?」
「いーよ」


 藤代くんは「行こう」とそのまま、どんどん、どんどん、歩いていく。
 でも本当にいいのだろうか。このまま、手を引かれるままに、この背中に付いていっても。確かにようやく見つけた彼だけど。でも。でも。


「明日の試合は? いいの?」」


 明日は大事な試合だと、笠井くんは言っていなかっただろうか。昔の選抜メンバーで集まるから、藤代くんも楽しみにしていて、大事な試合だから。だから私にも一緒に探して欲しいと、そう言っていたのに。
 不意に足が止まる。つられて私も止まる。手は繋いだまま、でも藤代くんの顔は見えない。いつの間に夜がやって来たのか、そしていつの間に暗雲は消えてしまったのか、周囲はとっぷりと暗く、月明かりと街灯とが藤代くんの背中を映し出す。皺くちゃのスーツが平然と「いーよ」と答えた。


「明日、早い電車に乗れば間に合う。それに出るからには絶対勝つよ」


 勝気な声が静かな夜に凛と響く。――でも、一際強い風が彼の黒髪をちいさく揺らし、「それに、」と小さく呟いた後、暫く振りに振り向いた彼は、


「今、手に入れなきゃ駄目な気がする」


 ――月明かりの下でもはっきりと分かるほど赤く染まっていた。




 一瞬にして熱を帯びた私の身体は、寒空の下にずっといたとは思えないほど、彼に腕を引かれた後も、真っ白なシーツの波に飲まれたその後も、ずっと変わらなかった。
 瞼を落とすと虹色の世界が浮かびあがる。ずっと会いたかった。会いたくて。会いたくて。すれ違って。傷ついて。恋焦がれて。でもきっと私たちは二人とも同じだったんだね。いつでも会いたくて、触れたくて、たまらなかったのだ。――――でも、今は、もう、


「誠二くん」
「……やっと呼んでくれた」


 瞼をそっと持ち上げれば、今まで見たことのない誠二くんのくしゃくしゃの笑顔が私を見下ろし、私も同じ表情で応える。――またひとつ、新しいわたしが顔を出し。そうしてまた、世界は虹色に輝く。



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